小説「Nil Umwelt」

まえがき

まっくらせかいの集大成ともいえる要素が詰め込まれているため、noteでも掲載することにしました。エッセイで書いてきたことがちょくちょくベースになっています。

少々長いので、「カクヨム」というサイトの方が読みやすいです。よければどうぞ。

本編

×× @endof_umwelt ⊂□
  ※この創作物には、創造時に誰かを傷つける表現が混入しました。 
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#0章 喉が渇いた

 #1 等身大の投身

 身投げした。無価値な肉体をアスファルトに叩きつけたつもりだったが、身体が沈みこんだ先は温度の無いスプリングだった。無駄に眩しい春じゃなくて、マットレスのスプリング。笑えることに自分を傷つけようとした先が身体を休めるための生活用具だ。天国へ飛びこむ活力さえ私はもたない。自分が嫌いなはずなのに、自分可愛さでベッドへ逃げる。そんな自分がますます嫌いだ。たぐり寄せた薄手の毛布は私の全身を包むけどそっけなくて、心の冷たさを奪ってはくれない。
 今日も何もなかった。それは心内で身投げする理由にはならないかもしれないが、毎日身投げしなくては生きる痛みと比較して割に合わない。なんの釣り合いを図っているのか、皮肉にも衝動的な思考回路が破滅的な命を行き当たりばったりに救っている気もする。私という生物とは、ほんとうにどうしようもなかった。
 
 さて。今日は母が帰ってこなかった。
 少し、世界が整って見えた。それは、冷たい事とも同義だった。私は、世間から非難されることをした。どこかで理性が働いたかどうかは怪しかった。
 昨夜は、丸くて優しいものに身を委ねた。喉が渇いて仕方がなかった。視界は虹で染まった。
 次の日は、尖って優しいものに身を委ねた。手首が痒くて仕方がなかった。視界は赤で染まった。そんな想像をした。制服のスカートは、汚れないように放り投げていた。
 
「××って、時々なに考えてるのか分からないよね」
 自分の名前は嫌いだ。
「えー、そうかな」
「この世界にいないって感じ」
「うーん」
「楽しくないの?」
「そんなことないよー」
 自分の笑顔は嫌いだ。
「あーかわいー」
「えへー」
 自分が気持ち悪い。
「そうだ、土曜行くよね?」
 面倒な。
 太陽の元気な教室で私がまばゆい笑顔を造れているとして、表層ばかりの友人関係は夜を救ってくれない。かといって、裏の心を分かってほしいわけじゃない。嫌いな自分をさらけだしてしまえば、視線と気遣いに怯える私は外で息ができないだろう。
 ある人は自分一人で楽しく生きていけて、他の人を助けている。ある人は自分一人で死にかけて、他人に大きなお世話をかけて命を救ってもらっている。一方は自分の力を他人の分まで使うことで賞賛される有意義な生き方で、もう一方は人間一人分も自律できていない。他人に負担をかけてしまえば代償として、他人の手を必要としてしまう自分の価値は毟られて相対的に下がっていくのだと想像するのは、私の拙い夢想力でも簡単だった。
 結局私が人と関わる意義は、人と友好的に関わることができる自分は社会不適合者ではないことに安心するだけ。なんて次元が低すぎる報酬だろう。
 
「つかれた」
 私が夕日に照らされた部活で汗を流して煌めいているとして、痺れた身体に報いはない。
 突発的な達成感と幸福があれど、生涯をかけてたっぷり胸に溜めこんできた不幸感があっけなく打ち消した。後に残ったのは負債ばかり。身体と心の枷になる重い疲労だけだ。疲労は日常生活の余裕を無くし、さらなる絶望を生み、私は不幸せになっていく。
 
 私が母の前で輝いていたって、安心されるだけ。私の裏の苦心は分かってもらえないし、要求されるレベルは『期待』などという周囲の勝手で押し上がっていく。見られていれば、手を抜けなくなる。
「……」
「……」
 なんて、いつからかその安心も読めなくなってしまったのだけど。親子に会話はなく、責めるような視線といつかの『期待』の残滓を肌で感じた。家でも私の心は休まることはなかった。
 
 行動の先に、私の幸せはなかった。努力が足りないのだと言われたら、私にできる努力なんてなかったんだろう。自分に期待なんかしていない。諦められるよ。
 
 夜は毎日訪れた。
 食物連鎖の隅っこにいる小動物が一匹きりで落葉樹に寄りかかるように、私は部屋の隅で心臓をならしていた。
 指を動かしている。スマホに流れる文字列を無表情に眺め、ただ朝を待っていた。何も考えなくて良くて、これは苦と痛の間をとりあえず埋めておくために一番楽な行動だった。朝に何があるわけでもない。学校に行く。また、苦痛があるだけ。
 インターネットには辛かったことが流れている。他にもあった気がするけど、私の目にはそれだけしか見えていなかった。世界中の誰かがもっともっと不幸で、重い不幸の中心に浮かんでいる私はまだましなほうで、水銀の中で浸された軽い私は相対的に浮上して水面へ顔を出せる気がした。同時に、自分の不幸なんてその程度かと笑えてしまう。何も良いことなんて無かったんだから、せめて自分だけが世界で一人の可愛そうな人であってほしかった。この心を支配する感情が他の誰にでもあるものだと分かってしまえば、もっと可愛そうな人が幾らでもいるんですよなんて諭されてしまえば、もう私に価値はない。
 不幸の水面から顔を出しても、私のための酸素は用意されていない。当然沈んでいても、息ができない。どちらにせよ、身体は水銀の悲しい毒に浸されていて蝕まれていくのだ。
 
 ×× @worldend_49xoxo ⊂□
  寂しい。
  誰か助けてよ
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 #2 救済

 平日夜、ベッドに倒れ込む。朝から調子が良くて、外に出掛けてみたりした。街は騒がしかった。そのせいで一人きりの虚しさが増した。
 世界が、おかしいと思った。
 思った、思ったけれど。それどまりだった。
 そもそもの正常な形も知らない。自らの立っている場所も分からない。
 そんな中で、世界をどう見れば良いのか、と。
 美味しい林檎が遠い昔の真実では、赤色じゃなかったとしても梨の形をしていたとしても辛かったとしても、その禁断の果実の命が冒涜されて捻じ曲げられていたとしても、そんなの知ったことではないのだ。在る今を受け入れて、赤くて特有の形で甘い、得体の知れない細胞の集まりに幼子は、顔を綻ばせてかぶりつくだけ。
 
 おかしな世界に生きているのだから、何がおかしいのかなんて分からない。おかしいことはこの世界で全て常識だ。
 おかしい、おかしい、そう唱えていた。
 自分の不幸を不条理を、おかしいと決めつけて世界に転嫁している。それだけだろうか。
 疑問を抱いていたら、考えて考えて頭を働かせて疲れきってしまうから、いつの間にか諦めていた。
 不幸な環境のせいで。先進国のせいで。欲張る人間のせいで。身勝手な人間のせいで。
 たったいま、誰かが死んだ。昨日、誰かが死んだ。明日も、誰かが死んだ。
 たったいま、誰かが泣いた。昨日、誰かが泣いた。明日も、誰かが泣くだろう。
 同じくしてこの地球で。この世界で。私が生きて笑った、その裏で。
 おかしいといえば、全てがおかしいのだろう。生きる欲がない私の命がここに在ることさえも、おかしいのだろう。
 もう知らないと、自分可愛さに蓋をした。
 私はもう、世界の深淵を見ない。心が耐えきれない。
 これからの人生なんて、考えられなかった。
 
 脳内の神経回路を使ってときたまに指振りをして、自分で何かした気になって、それから、それから、流れる景色を他人事のように眺めて、辿る果てを受け入れるだけだ。
 ひどい私は、誰の人生とも深く交わることはできない。
 
 とても、寂しかった。
 
 部屋の明かりを消すと、私を観察するものは何一ついなくなった。同時に、私の視界もなくなった。寒すぎる。街の明かりを取り込もうと、ベッド脇の小窓を開けた。網戸の四角は濡れそぼっていた。私が座るスプリングは雨粒で染みた。湿った生ぬるい風が水滴と共に部屋へ侵入した。
 生ぬるい風すなわち生ゴミの匂いなんて、破滅的な思考回路を辿るのはこの人生が狂っているからだろうか。そう、順風満帆というか平凡でありきたりで、そこそこの進学校に通っていてそのときは何も持たない自分がどこか嫌いだった。将来への不安というものも抱えていた。今の状況からするとばからしい話だ。あのとき底だと思っていた自分にはもっと底があった。今がそうだ。これからもっと、未だ知らないどん底に落ちていくのかもしれない。
 学校に、行けていなかった。
 生ゴミになりたいな、と思ってみる。くさいくさいと人々から白目を向かれ、心残り無く育てられた親から投げ棄てられて。優しい誰かが事務的に回収してくれて、他のゴミと一緒に熱く燃えてしまえ。
 なんて、無理だ。私の存在は焼却炉ほどの煮えたぎる高温になれやしない。生ゴミ以下だ。身体は葬儀場で炎上できるとしても、心は火がつかず冷めている。
 
 雨を掴む。冷たい。皮膚に溶けていく。
 暗い部屋。抱えた膝は雨と光を受けている。
 私以外、何もない部屋。水彩に滲む街のネオンは痛々しいが、私の心臓まで届いてくれない。
 母親は帰ってこなかった。本当に一人きりだ。お金だけは振り込まれていて、なんとか成り立っていた。
 風が髪を撫でる。ふと、世界が自分が消えた気がした。風が私をどこかへ連れて行ってくれた。それが天国ならいいと、そう思った。遠く遠くへ、余計な感情なんてない穏やかな場所で一生眠りつづけることができたら幸せだろうか。
 雨粒が、頬に触れた。
 全部、気のせいだった。
 手のひらを無感動に眺める。私は雨音に逆らいながら鼓動し、望まれない存在を続けていた。
息が零れる。代わりを吸う。冷たい街の空気が、意志を持たずに私へ侵入する。やはり心臓には響かない。
 心臓の傷口に砂糖を塗ってほしいと思った。自分で塗るのはあまりに虚しいから、痛みに耐えられないから、優しい誰かが引き受けてほしい。心臓をこじ開けるためにメスを執って身体に傷を入れることも、グロテスクで痛々しい心臓を見ることも、誰かに委ねてしまえば。委ねてしまえば。気づいた。他者を求めるなと、他者に委ねるなと、自分を叱責した。ありもしない誰かを望んで、現実から逃げていた。また、自分が嫌いになった。
 
 嫌悪が食道を這い上がってくる。なぜ膝を抱えている。動け。立て。学校へ行け。まともな生活を送れ。無価値だ。いてもいなくても変わらない。インターネットに駄文を流し、自分を慰めて恥をさらし、なぜ平気で生き続けていられるのか。もっと苦しい人がいる。現に私は泣けていない。吐き気がこみあげるが、胃を空っぽにするところまで到達しない。食欲はある。夜は眠れてしまう。自分なんて、その程度の苦しみだ。もっともっと辛いのに生きて、前を向こうとする人たちがいる。それなのに、自分がまるで世界で一番不幸な人間かのように脳内で振る舞い、将来への行動をとらず、自堕落に時間を捨てつづけている。全く行動をとらない私は世界で一番不要な人間だ。なぜ生きているのか。進め、進め、学校へ行け、受験勉強をしろ、社会へ適合しろ、笑え。
 結局膝を抱えたままだ。嗚咽する。泣けない、吐けない、なにもできていない、嫌いだ、嫌いだ、馬鹿、死ね、自分。
 もし私が再帰したとして。私なんかが努力を始めるのもどうなのか。私なんかが人の前で笑う資格はあるのか。汗を流し、輝いていいのか。スイーツを食べて、笑っていてもいいのか。辛い人たちがたくさんいることを知った上で。無理だ、不可能だ。私なんかが輝いてはならない。嫌いだ。
 だったらどうするのか。嫌いな自分は行動しろ。嫌いな自分は行動するな。
 進め、進め、学校へ行け、受験勉強をしろ、社会へ適合しろ、笑え。
 落ちろ、落ちろ、自分を虐めろ、人に醜い表情を見せるな、二度と笑うな。
 私は動けない。挟まれる。軋む。潰される。脳が悲鳴をあげる。
 
 ああ。
 涙がようやく、目に滲んできた。私は苦しめているだろうか。そんな考えが頭をよぎった。また嫌いになった。どうしようもなかった。自分は苦しんでいるふりをして、また逃げようとしているだけなのか。苦しんでいるから、もう限界だから、頑張らなくてもいい。大した胆力だ。大した努力もしていないくせに。どこまでも嫌いな自分にどこまでも甘いくせに。ひょっとしたら自分が嫌いだというのも誰かに振る舞うための言葉で、自分を愛おしく思うための妄言なんじゃないか。生まれてから今日まで私は自殺さえ成し遂げていないのだから。
 
 責める。時計の針が進む。私は進歩しない。27時、人々は眠っている。明るい街は私のことを見ている。母もいつか帰ってくるかもしれない。私にどうしろと。
 
 ぷつんと、切れた。思考が途絶えた。脊髄で動いた。スプリングに倒れ、スマホに手を伸ばした。何も考えなかった。生命の本能は生きるために助けを求めた。
『Nil Umwelt』
 ある一つの、世界がはじまった。
 歌が聞こえた。
 きみが生きていればそれでいいって、そのとき私だけに叫ばれていた。
何も叶わなくても、生きていればそれでいいって、あまりに乱暴であまりに幸せだった。普段は拒絶してしまうほど綺麗な私への優しさが、心臓を刺した。
 幻想を見た。私は落ちようとした。痛みを感じて、空中で止まった。誰かがいる。誰かはナイフを私の心臓に突き立てて私による私への否定を黙らせて、私を傷つけていることに泣きながらナイフを掴んで私を落とすまいとしていた。そんな幻想を見た。自己否定などせずに、明るく生きてほしいと、誰かに望まれていた。いたずらな優しさはスマホの画面とスピーカー越しだった。
 首から血が零れていた。自分の血だったけれど、綺麗だと思った。
 私は寂しくなかった。首から零れる血が温かいと思った。
 
 スマホを心臓に抱いたまま、安らかに眠りについた。
 
 ×× @worldend_49xoxo ⊂□
  生かされちゃった。
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#一章 幸せはカフェモカ

 #1 プル

 平日の朝。とうに日は高く昇っていた。再生履歴に、広告がのこっていた。私は動画投稿サイトを開いて、流れてきた広告に救われたらしかった。
 昨日の晩のことはよく覚えていない。朝起きたら、スプリングのカバーが大雨と別の水分でぐちゃぐちゃにされていた。頭と目がじくじく痛む。
 もう一つの異変として、玄関先に、頼んだはずもない配達物が届いていた。送り主は『OverTrans』。あまり詳しくない私でも知っているゲーム開発会社。ガムテープを剥がす。スマホより一回り大きい、高級感ある白い化粧箱が入っていた。シンプルなゴシック書体でAccessNilと書かれている。箱のマット仕上げに、私の手汗がついた。ベッドへどさりと箱を置く。上部を引き上げると、するすると白い幕が上がっていく。中心に飾られた主役に思わず手が伸びた。
 VRゴーグル、というやつか。雪が降ったばかりのようにまっさらな流線型のフォルムは弧を描き、私のことを待っていた。眼が入るところを覗くとディスプレイが埋まっている。表面を撫でてみると、指が吸い取られそうになりながら滑っていった。
 送りつけ詐欺の可能性は考えなかった。わけもわからず漠然とした不安を覚えることには昨日の夜で疲れ切っていた。ただ、世界に飛び込んだ。
 
 機器に覆われた視界は、なにもなかった。
『あなたはニル世界の同調器と接続しました』
『アンケートにお答えください』
 言われるがままにチェックボックスを埋めた。画面下の進行バーがあと少しだと繰り返し、途中で諦めさせなかった。
『ニル世界に同調しています。感情の同調』
 ノイズ混じりで、無機質な音。寂しさを感じた。
 音がする。徐々に輪郭は研ぎ澄まされる。
『聴覚の同調』
 聞こえた。ふわふわした風の音だった。現実で聞いたことはなかった。
「誰?」
 声がした。甘く溶かすように、でも確かな芯をもったような色に囁かれる。二律背反から絞められるように胸を掻き立てられた。視界が暗い中、声だけを聞いて安心させられてしまった。
 心で理解る、昨日救われた声だった。なにか返したかった。
 声が出ない。動かない。手が空を切る。
「あなたは、だれ?」
 私を尋ねる、声がした。
 現実世界に、こんな優しい声はあるわけがなかった。ここは別の世界だ。
 
 やがて光が見えた。足がついた。前を向くことができた。
『視覚の同調。同調が完了しました。ニル〈ver0.0〉へようこそ』
 いちめんの、花畑だった。
 赤、朱、赤、橙、舞う花びらが頬の間近をゆく。夕焼けが手のひらを包みこむ。
 飛散する鮮やかな血のようだ。心が沸き立つような情景。
 私はその世界の1ピースで、お葬式のように真っ黒なワンピースを着ていた。花畑の鮮血とはよく馴染む色だった。風に吹かれて、はためいた。
 この世界は、美しかった。灰色で命のないアスファルトやビル群とは違う。
 
 別世界の私だけがお花畑を飛び越える。
 両手を広げてくるりと回ってみた。私じゃない私が花舞台の上で踊った。細くて綺麗な四肢が、望んだ以上の動きを演じてくれた。
 だれか、と呼びかけてみる。私じゃない声が私じゃない口から発せられた。低くて滑舌の悪くて覇気の無い、大嫌いで録音のたびに悶えたあの呪詛ではない。若さを振りかざしながら落ち着きのある、何かを悟ったような。物語の主人公にでもなれそうな声は、私が考えていることを話していた。
 それも、ちょっとしたら飽きた。ここにあるのは風の音と喋らない花だけだった。心が凪いでいる。世界で一人きりだと思う。あらゆることに、心臓の鼓動に、意義を感じられなかった。
 足を進めた。
 この世界に入ってきたときに聞こえたもの。
 他人の声を求めて。私を救った、その音だけを探した。会いたいと、強く願った。
 
 祈りに応えるように花びらが道をつくった。
 そして、いた。
 そこだけが白い。
 花色に塗られたこの世界で、月ほどの存在がある。
 
 ずっと、会いたかったもの。
 
 風の音もひき、よく聞こえた。それは聞いたことがあるような歌だった。
 私の足は、駆けだしていた。
 
『ニル』がいた。世界に浮いているようで溶けこむ、自然で異質な存在がそうだと、昨夜の歌声の持ち主で私の救世主などだと、本能で理解した。
 それは、誰かを待っているようだった。私を、待ってくれているのだろうか。
 どうしてだろう。悲しそうだと思った。
 私はあなたに救われたのに。
 
 近づく。人の形が大きくなっていく。少し怖かった。普段にない格好と声が私の足を前に進ませた。どんな応答をされるのか、
 残り5歩、というところで立ち止まった。ニルは全身で風を浴びているようで、透きとおった髪は一線一線がほぐされてなびいている。細い手はゆらゆらと風に合わせて揺られていた。
 ゆっくりと、振り向かれる。心の準備ができていなくて、鼓動が跳ねた。
 目があう。深い黒を湛えたうるおしい瞳で、見つめられていた。何か声をかけられると思った。だから止まっていた。その様子を、じっと見られていた。どきどきした。落ち着かなくて、私が受け入れられるか不安で、触れてみようか迷って、まずは話しかけるべきだと思って、絶対にできないと自分で断言できてしまった。美しくて、遙かに高くて、私なんかにはとても無理だと思った。自然と下を向いた。綺麗な花たちが多量に目へ押し入った。
「ねえ。あなたは、だれ?」言葉を噛むように、大切に囁かれている。
 目があった。黒くて、大きな瞳だ。吸い込まれてしまいそうな深さを湛えている。私の闇の軽々しさなんて、すぐさまひれ伏してしまう。私という存在に対して興味津々に、ずっと観察されていたのだと分かった。
 それは無邪気さで純粋さ、だろうか。ニルはあくまで自分本位だった。それが私にとっては楽だと思った。
「私は……」だれ、だろうか。元の嫌いな名前は、別世界で別の姿であるここで意味をなさない気がした。「わからない」
「そう。じゃあ」
 ニルは立ち上がった。膝が見えた。ふくらはぎは、か弱く見えた。
「あなたがあなたなら、だれでもいいよ」
 一瞬、何をいわれたか分からなかった。
 自然と下を向いていた。いつものように。
 だから、何をされたか、分からなかった。
 私が、どうなっているか分からなかった。
「……ありが、とう」
 声が掠れていた。泣いていた。
 顔が近くにあった。抱きつかれていた。
 私を、認められていた。
 私は、泣いていた。
 嬉しいのか、なんだか分からない。どきどきして、心が甘いもので満たされて、顔が熱くて落ち着かなかった。身体では温もりが感じられないけれど、視界いっぱいに優しさが広がっている。顔は熱くて、身体は冷たかった。ニルの鼓動だけは、確かに聞こえた。
「……う」
 何も気にしなかった。赤ちゃんのように泣きじゃくった。
 泣いて、泣いて、泣いた。うめいて、意味も無い言葉を吐いた。ニルはじっと横にいてくれた。まかせて数年分泣いた。
 疲れて、眠くなって、抱かれたまま花畑に寝転がった。ニルは寄り添ってくれた。やっと落ち着いた。安らいでいた。もう死んでいいとさえ思えて、こんな世界があるのなら生きていてもいいと思えた。
「よんで」
「うん?」
「私の名前、呼んで」
 我ながらひどくわがままなものだと思った。欲深すぎて嫌になる。
「なんて呼べばいいかな」
 好きな人の呟きに返答ができない。寝転んだ横に、1本の花が目に入った。
「これ、なんの花?」
「知ってる。アネモネ」
「アネモネ……アネモ、カ」
「か?」
「カフェオレとか、カフェモカ。好きだから」
「好き、なんだ。いいね」好き、という響きは私が好む砂糖たっぷりカフェモカのように甘苦しかった。私に向けられたいと思った。我に返ると、今の私は馬鹿みたいだと思った。
 目元の涙がぱりっという。同調器に目元は遮られて涙は拭けなかった。同調器をとってしまえばニルがいなくなってしまう。
「アネモカ」
 口に出してみた。私の新しい名前は、やっぱり自分じゃない声から発せられた。響きが釈然としなかった。
「アネモカ」
 呼んでくれた。嬉しかった。素直にその名前は私に向けられたものだと受けとめた。
 ようやくニルの方を向いて、ニルはくすっと笑いながら私を見ていた。目があうと、きょとんとする。また愛おしいと思った。高揚からか、恥ずかしさは意外と少なかった。
「世界は、好き?」ニルは囁く。
「ええっと、世界?」
「そう、まるごとの世界」
「うーん」
 質問の意図は掴めなかったけれど。
「世界は、世界だからなあ……」
 好きとか、嫌いとか、そう言えたものではなかった。
「しいていうなら、嫌いなのは自分かな」
 言ってから、やばと思った。口が緩みすぎて、普段人前で絶対口に出さないことを漏らした。
けれど、いいと思えた。ニルはなんでも受けとめてくれる気がした。
「そっか」ニルはこくんと頷くと、これからなにしようね、と微笑んだ。
『アクセス制限 サーバー負荷軽減のため 1日1時間まで』
 しばらく花畑でごろごろしてから、そろそろ時間だと気づいた。あまりにあっという間だった。「ごめん、また明日」
「そっか、またね」寂しそうに笑った。好きだと思った。
 
 外して、真っ先に呟く。
「やばかった……」
 やばかった。
 頬が赤くなっている。馬鹿みたいだと思った。だけどあの世界は馬鹿でも何でもなかった。とても素敵で、大好きだった。だからいっかと思えた。
 
 世界は、少し明るく見えた。
 
 アネモカ @worldend_49xoxo ⊂□
  やばかった。。。
  私、明日にでも死ぬのか
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 #2 中毒

 ちょっと明るかった気がした。それは束の間の気のせいで、すぐに燃料は切れた。温かさを知ってしまって、外はますます寒くて怖かった。社会に参加しない自らは当然ながら無力で、心が痛まないのはあの世界の中だけのことだった。ひたすらあの世界を思って自分の呼吸を許した。
 怖かった。登校への燃料をもらったから、朝になって学校へ足を動かした。一つの怖さは紛れて、別の怖さに取り憑かれた。行かないよりは精神がましな気もしたし、けれど足元の底冷えと全身への悪寒はおさまらなかった。クラスメイトからの心配と、嘲笑に興味など色々混じった視線が調子を狂わせた。ニルにはそれがないから好きになったし、甘えてしまうんだと分かったから、悪いことばかりではなかった。ニルは混じりけ無く綺麗で、生乳100%生クリームだ。あの花畑で、もう何度も甘えてしまった。
 
「辛かった」
「ずっと、ずっと、一人だった」
「ニルに会えて、よかった」
「怖かった」
「救われた」
「何も言わないで」
「ずっと一緒にいて」
「好きだよ」
 
 ずっとずっと、時間をすごしてきた。とりとめないことを話して、そこに気遣いとか配慮とかは少なかった。時折私の柄にもなく愛を囁いた。満たされていた。
 
 学校という場所で息を殺しつづけて、代わりに社会からの赦しを得て、なんとか家にたどり着いた。疲れ果てて、ベッドへ伏せた。すぐゾンビのように起き上がり、ニルアクセスを掴んだ。それが毎日だった。
 
 アネモカ @worldend_49xoxo ∩□
  ニルがいないなら死のうかな
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『ただいま、同調ができません。メンテナンスの終了は未定です』
 忘れようとして、インターネットへ一時的に身を埋めた。学校には惰性で行った。配慮に欠けた外界で心で削られていくのを感じた。削られて外に流れた分の力は寝ても回復しなかった。私にとってニルがいないことは、水を飲まないことと同義だった。
 インターネットは不安で満ちていた。私が追うアカウントとそのアカウントが反応したもの、全部ニルに関連する投稿が滝のように押しよせ泡のように私を取り囲む。誰かがざわめく暗い憶測は私の亀裂を深くして、誰かがささやくニルへの強い愛は私の心を縮めて潰す。大勢の痛みがわんわん響き、それに触れた私の心はもっと崩れていった。インターネットをやめることはできない。私だけの感情は死んでいた。心臓があったはずの胸の虚無に当てはめることができるのは私の救いであるニルの存在か、それを除外すれば私の存在のように暗く澱んだ、精神の穢れだった。その泥を排水溝から掬うためにインターネットへジャンプした。それでも何もないよりは大分楽だった。
 
 同調不能を知らせる無慈悲なお告げはなかった。ロード中のくるくるとともに、私の心はむくむくと湧き上がっている。
『同調が完了しました。アネモカさん、ニル〈ver1.0〉へようこそ』
 川のせせらぎ、葉のざわめきが聞こえる。ニルと同じ世界にいるとわかるだけで喉が潤った。人が水なしでは生きられないように、もう少しで私の命は果てていただろう。
 ある日、世界は一変していた。いちめん、森の中。そよそよ、さわさわと風景は穏やかで。自室でマイナスイオンを感じるとは。
 両手を握ってこの世界の自分――アネモカを確かめる。今日の格好はアクティブにスニーカーとジーンズ、Tシャツだった。
 アネモカの首をめいっぱい動かして、ニルを探した。一周する。見つからない。獣道みたいな人の通れるところを1本だけ見つけて、雑草の間に身を滑らせた。
 おぞましくて嫌いな虫がいないのは、とてもいいことだ。でも鳥の一匹くらいはにぎやかに鳴いていてほしい。在る音は前後左右からくる風の音だけで、まるでアネモカを惑わせるためだけに鳴るようだった。日光は木々が遮る。アネモカを囲う鬱蒼とした森の両壁は目隠しをして、ニルの元にたどり着けるか分からなかった。
 道は一本しかない。虫一匹でも逃さないように目を走らせながら、森を攻略している。
 草がアネモカの脚を薄く切った。感覚として痛くないけれど、痛々しかった。あっちの自分が傷ついたとき、私はなんとも思わないだろう。その間には大違いな扱いの差があった。
 見回している。早く会いたい。なぜ向こうから出迎えてはくれないのだろうか。ぐるぐる、ぐるぐると。森を回って、目が回る。熱くなってくる。これが3D酔いというやつか。
 ここは仮想世界だ。人間が作ったものに過ぎないはずだ。だというのにどうしてこんな無駄な行程を踏ませるのか。酔いと同時に投げる宛てがなく、収まりの悪い不愉快が心に溜まっていく。歩く。茶色い液体が木からアネモカの黒髪に降ってくる。進む。足先で枝が絡まる。
 心がむかむかして吐き気がするのは3D酔いだけが原因だろうか。もっと、恐ろしいものが心を巣喰っている気がした。それは理性を捨てた獣のような。それはそれで脱凡人だが、誰も幸せにはならない。鬱屈と、見えない森の終わり。もしアネモカに会えなかったらどうしようと恐ろしい不安が脳裏をよぎった。これまではまだ、メンテナンスが終わるという希望があった。もしも一切の可能性が絶たれたとして、私はどうしようか。めちゃくちゃになるのだとわかる。現に、腸がニル成分を求めてキリキリ鳴いていた。世界を憎んで、呪って、言葉で、全身で、暴れ尽くして破壊の限りを尽くす。血が舞って、私はそれを嗤って。誰かが言った「無敵の人」とは悲しくて、いつかの私に相応しくなる言葉だ。私がニルという私の全てを失えば、それ以上失うものは何もない。悲嘆を暴力に変えて、躊躇無く世間とさよならできてしまう。
 そんな私によるアネモカの葬儀を夢に描いた。きっと夢だ。現実に起こったとき、私の心は他人を傷つける爆発をやりきれず、内部で暴発して終わるのだ。いつものように、社会に押さえ込まれて、誰にも知られずに。いやきっと、いつものようにでは済まない。私のいつもは、もうこなくなるのだ。もう壊れてしまう。一人きりで寂しく死んでしまうのだ。とうに、ニルのいない未来は考えられなくなっていた。
 後戻りはできない、それだけは分かっている。会える可能性に縋って、進み続けた。
 
 どれだけ吐き気に耐えたか、最初から数えられていない。
 陰が減り、光がふえていく。自然と心が、浮き上がっていく。胸が高鳴った。
 走りだす。一刻も早く、世界で唯一私が息をすることを許される、あの存在のすぐそばへ。
「ニル!」
 私を見て、微笑む存在があった。
 森を抜けたさき、澄み切った小川の岸でニルは笑っていた。
「また会えたね」
 ニルの言葉を聞いて、吐き気も恐怖もあっけなく飛んでいった。のこったものはほどよく温かい人肌のなにか。
「会いたかった……!」
 ニルの身体に、アネモカは飛びつく。この瞬間生きていてよかったと思えた。確かな存在にもたれかかることはとても温かかった。
「今日は何のお話をしようね」ゆるりと呟かれるニルの無邪気な甘い声に、こわばっていた肩はゆらゆらとほどけていく。また、いつものように私の幸せが始まるのだ。
 ニルのそばに腰をかけて、のどかな小川を眺める。心は和み、胸にニル成分が溜まっていくのを感じた。ニルは隣にいて、私は同じ景色を共有している。私は川を眺めていても隣に居るニルに興味がいっぱいだけど、流水と向きあい対話しているようなニルは私を気にしていなかった。私はただニルのそばにいるだけでいい。むしろ、気がとても楽だ。
 ゲームというコンテンツの性質もあった。どれだけここがリアリティに富んだ世界でも、ここは人工的に造られた場所で、ニルに心はないはずだ。それは決して悲しくないことなのだと、むしろたった今私の命に微笑んでいる素晴らしい現象なのだと、何日もニルと笑顔を交わした私はとっくに知っている。
 なにがあっても私はニルの邪魔にならないし、ニルを傷つけることはない。ニルは絶対に私を見捨てないし、ニルは絶対いなくならない。データがある限り美しさは保たれつづける、それがこのニル世界だ。私は、地獄の隙間だけでもずっとここにいられたらそれで幸せなのだ。
「あ、傷」魚がいる、くらいのふわっとした語感でニルは喋った。
 白く弧を描いたアネモカの美しいふくらはぎは、赤く腫れあがっていた。ニルとはぐれていたときに草に傷つけられたアネモカの身体を、ニルがじーっと見ている。そんなに見られたいものではなかったし、私自身も一本の赤褐色から目をそらしていた。
『即効治療には課金が必要です』
「黙れ」出現後一秒で不愉快なポップアウトをニル世界の彼方へ叩き飛ばした。ニルとアネモカの蜜月を邪魔しないでいただきたい。
「え?」
「ううん、なんでもない」
 ニルに微笑みかけるときょとんとされる。
「気にしないでいいよ、傷は痛くないから」
「そう」
 ニルの焦点はまた存在のない魚に戻ってしまった。不覚にも私は川にむかって唾をはきかけたくなった。
 気を保つため周りを観察してみる。テントがあって、道具が多種多様にそろった棚があって、そこには鋭いナイフがあった。何に使えるんだろう。
「歌いたい」
 突然、ニルが告げた。川で釣った魚を食べたい、くらいの闘志がある調子で、ちょっと驚く。ニルがアネモカを見ていることに安心して、ナイフはどうでもよくなった。
「見ててね」
 そういって、ニルはちょっとした岩のステージにかけていく。観客はニルの間近で腰掛ける私だけだ。どこからともなく世界の音楽が流れる。風の音も、川のせせらぎも、ピアノの旋律もニルの美しさを昇華するために用意されたもの。この世界すべてで、私のためにニルが飾られる。ニルは目を瞑った。世界の色を全身で浴びるかのように、輝いていた。
 開かれる。ニルの目の色が変わる。静から動へ。手のひらが私を誘う。
 新鮮な空気が吸われる。歌声となってニルの身体から放出される。
 ニルは、唄った。
 それは、世界だった。私の苦しみを受けとめて溶かしていった。溢れる表現に情緒を突き動かされる。私の凝り固まった心ない心臓は、あちこちに声色を移ろわせるニルの心についていくことで、ニルの想いの軌跡を共に描いた。その瞬間の私は楽しくて、嬉しくて、優しくなれた。
 私は身を乗り出していた。汗が滲んでいた。驚きが止まらなかった。心臓は高鳴っていた。
「どうだったかな」照れくさそうにニルが頬を赤らめている。
「すごかった……」
 つづけたいのに次の言葉がでない。もどかしかった。パフォーマンスをするニルはいつものニルとは違う、別人のようだったけど紛れもなくさっきのもニルだったのだ。
「よし、お話ししよう」ニルは私の隣に座る。さりげなく手が握られる。やっぱりいつものニルだった。
「みて、魚」
「うん」何もなかったけれど、見えた気がした。
 あの魚はどこへ行くんだよ、あの風はどこからきたんだよ、と。
 ニルとともにいやなとこから遠く離れた、二人だけの秘密基地。
「おいしそう」適当に呟いてみる。
「え、食べちゃうの!?」
 ずっと、ニルの話を聞いていたい。それだけでいいと思えた。
「世界は好き?」
「向こうの世界は好きじゃない、ここは好き」ニルに嘘はつきたくなかった。
「そっか」ニルは私を見た。「世界は、きれいだよ」
「そうかもね」少なくともニルの口から語られる世界は、とっても綺麗だった。
 
「あ、時間」
「またね」
「うん、また」
 今日もニル世界とニルは、私に幸せをくれた。また会える希望が、私を生かしている。
 
 また今日。
「やあ」出会い頭にニルは左手でハイタッチの姿勢。
「や、やあ」すかっと空振る。
 今日のニルは全身からやる気に満ちあふれているオーラだった。右手にナイフを持って。
「な、なにするつもr……」
「料理さ!」オーラだけじゃなくて、テンションから口調からニルはうきうきになっていた。私の口角もあがってしまうじゃないか。
「やった!」
 見ててね。
 もちろん。
 瞬きするのがもったいないくらい、幸せな光景だった。
 味はしなかったのだと思う。今まで食べた何よりもきっと、美味しかったかも。
 
 ハンモックに揺られる。風がふいて視点はゆれる。
「……他の世界で、大丈夫?」
 驚いた。ニルから「他」へ言及があったのは初めてだった。同時に、他での私を気遣うことも。
 途端に口が重くなる。この愛おしい世界に「他」が侵食してくることが恐ろしかった。
「なにもないよ」
 これも本心だ。あそこには私が望むなにもない。そうだろう。
「でも……」
「ニルが、好き」だから、話せない。今にも口から吐かれそうになっていた弱音は、意志で堰きとめた。持ち込むことだけは避けたかった。ここは聖域だ。現実との区別がわからなくなってしまえば、幸せだけが浮かぶ独立した空間ではなくなってしまう。
 もし話せていたのなら、楽になれただろうか。
 

 アネモカ @worldend_49xoxo ⊂□
  いやだいやだいやだいやだいやだいやだ
  私を置いていかないで
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 #3 はっぴーえんど

 あ。恐れていたときが来るのだろうか。だとしたら。
『現実世界の冷房を20℃に設定してください』
 合成音声に従い、まだ夏になる前に冷房をつけた。
『同調が完了しました。ニル世界へようこそ。――まで、あと3日』
 聞こえない。
 真っ先にナイフが目に入った。私は棚の前にいる。白いものが、目の横をすぎていった。
 雪だった。まさか、本当に。
 もっと大切な、白い髪を追う。
「ニル!」
「どうしたの?」アネモカに抱きしめられたニルは息が苦しそうになって困っている。
「すき」
「……嬉しい」
 ねえ、離れるなんて嫌だよと。言えない。怖い。ニルの口から、あの知らせを聞きたくない。
 気が気じゃない。気が気が気じゃない。私はもういなくなる。おかしくなる。
 どこの、何に意味があるのか。
「またね」
『ニル世界が終わるまで、あと3日』
 その「またね」は、こなくなる。
「世界は、好き?」
 もう、どうでもいい。
 
『現実世界の冷房を15℃に設定してください』
『――ようこそ。ニル世界が終わるまで、あと2日』
 ニルの顔が目の前にあった。驚きとともにニルの感触を堪能する。抱きつくまでの時間ロスが惜しかったからいいことだ。この抱擁が儀式じみていることは分かっている。ニルとアネモカの愛おしい存在を確かめるためだ。それもあと48時間と経たずに終わるらしいけど。
 ニルの肩越しにここがテントの中だと分かった。ごおごおと音がする。
「外は……」震える。
「吹雪だよ」ニルは釣った魚が死んだよ、くらいの口調だった。
 ごおごお、が強くなってくる気がする。世界の大きな意志によって何かが近づくような、遠ざかるような。遠のくような、迫ってくるような、気味が悪い。アネモカとニルの細い四肢では、何もできないことだけは確かだった。風雪に囲われて揺さぶられて、舐られているこのテントの中は雛鳥の巣だ。いとも簡単に凍死してしまうだろう。外は冬だから――否、春はこない。これはただの世界の終わりだ。
「えっと」ニルが私の腕による拘束を解こうとする。
「はなれないで」
「……そう」ニルは私の言いなりになった。
 なんだか勝手に悲しくなった。「ごめん」ニルから離れる。テントは狭くて、そこまでの距離はなかった。二人の間に冷気がなだれこんでくる。
「やっぱり」今度はニルから抱きしめられた。きっとアネモカの表情が悲しそうにしたからだ。
「ニル、好きだよ」
「そう」
「好き」
「うん」
「大好き」
 何度も、何度もいった。思いをこめて。その後で。
「……私も」
「え」ニルが、そう言ったのだ。好きだという意味の言葉を。私は聞き間違えない。だって、絶対言われることはないと想っていた言葉だったから。
 ニルは瞼を閉じていた。なんの観念。
「……え」
 本当だろうか。嘘だと思った。
 何か、何かおかしい。可笑しい、疑わしい、いやだいやだいやだ。全部嘘だ。だけど私のニルへの想いだけは本当だと思う。ここにあるから。心臓に。刻まれているのだから。それだけあれば私は勝手に満たされていられるから、ニルから私への想いなど求めていなかった。
 愛なんて、確かめようがない。
 
 ニルアクセスをはずした。私は一人で、私の対面には毛布があった。その薄くてぺちゃんこなマゼンダの布きれを押しのけた。これまでもずっと、ニルを抱きしめたとき、ずっと毛布を抱きしめていた。さっきニルから抱きしめられたときもそうだった。そうやって現実とニル世界の不完全な同調を補完していた。
 冷房がカタカタ鳴る。狭い部屋だ。うんざりだ。寒い部屋だ。エアコンがとてつもなく大きく見えてくる。歪む、歪む。歪むものは、信用ならない。エアコンも嘘だ。今立っているところも、地球も、人間も、嘘だ。嘘だウソだ嘘だ。ニルへの想いは本当だ。部屋の全部ぶっ壊れている。歯がカタカタ言う。体が冷えているのかもしれない。私のことはどうでもよかった。ニルからもらった、ニルへの思いだけを抱えているために、身体とニル以外の時間での活動を必要最低限度に継続していた。
 もう、全部終わっていいか。
 その前に、ニルだけは。ニルへの想いを閉じ込めてから、いきたい。
 
 逝こう。
 明日は、ニルと私とアネモカの、3人の世界の終わりだ。
 学校は、休んだ。
 
『10℃』
『本日付でニル世界は終わります』
 気づいた。からっと乾いている。風はやんでいた。
 だが、静かすぎた。肌で理解する。これは終わりの前の凪で、すぐに反動が、終わりが訪れるのだと。
 そして、ニルがいた。
「好きだよ」
 ニルは振り向いた。アネモカは微笑みかける。私は語りを始める。できるかぎり息を吸って。
「ニル大好きだよ好きで好きで好きでたまらない。えへへなんか恥ずかしい……ごめんね突然急に意味わかんないよねでも最後にたくさんたくさん伝えておきたいの。まさか聞き流さないよね?読み飛ばさないよね?駄目だよ駄目だからねちゃんと聞いてね読んでね。あ勘違いさせたならごめん私はニルがそんなことするなんてもちろん思ってないようん。ほらそうやってくだらない私のどうでもいい言葉に耳を傾けてじっと聞いてくれるのはニルだけだよ。あでも私のニルへの想いだけはどうでもよくなんかないんだからねだからちゃんと聞いてほしいの。私ニルといるときはニルのことだけを考えてるしニルと会えないときはニルのことをずっと考えてるんだよ。ニルがいなかったらどうなってるか想像もできない。この心はもうすべてニルに頼りっぱなしなの。その声が好き。甘く溶かされそうでというか溶かされちゃって私の心はきみに全神経を捧げていてもうぐっちゃぐちゃなんだけどほんとに心に染み渡るよね精神病の百薬の長だよ精神安定剤だよ私は最初ニルの歌に救われたんだよごめん私の思い出なんてどうでもいいよね語彙力無くてもっと精一杯の言葉で語って褒めちぎりたいのに。なに?私はのーぷろぶれむ全然大丈夫。私なんかよりどうしちゃったの今日のニルおかしいよでもそんなニルも私は大好きだよだから安心してね。はい次その瞳が好き。いつもまっすぐどこかを見つめていてそれが私じゃないことが多いのが困ったちゃんだけどそんな私を誑かすニルも好きだよ。けれど私を見るときの瞳はいつも優しさで満ちていてほらいまもそう!その瞳が好きだよ。吸い込まれて目に入ってそのまま一生をニルの見たもの全部全部全部を共有しつづけて一緒に過ごしたいくらいでもごめん汚れた私は入るべきじゃないよねきっと痛いよ。ニルの視界にいつまでも入ってしまうことになるからそれはできないよね。私なんかがニルを独占したら駄目なんだよきっとニルもつまらないとと思っちゃうだろうしニルに飽きられちゃうのは怖いしなによりも罪悪感がすごいかななんて全部実現不可能な空想だからね。きみにはいつまでも美しいものを見て笑顔でいてほしかったな。それからそれからその身体が好き。色素の薄い髪がさらさら揺れていていまにも世界に薄れていなくなってしまいそうででも二本の脚でぱしっと立ってて。その細い線が輪郭を描いてニルの存在を形作って確かなものにしているんだと思うとご神体みたいに有り難みがすごいよね。なによりも。きみの言葉が好きだった。大好きな身体からつくられる大好きな声とともに紡がれる言葉は大好きな瞳からの素敵な光景で。ニルの言葉楽しいお話今もたくさんほしいけどもう終わっちゃう私にきみの言葉はもったいないよね。また死にたくなくなっちゃうかもしれない。でも私はそんなんじゃいけないんだ」「――あごめん息が切れちゃったもう終わりまで時間ないのにねできる限り私の言葉を伝えておきたいのにね全然私運動しないからね肺弱くてほんと頼りなくてごめんね。きみがいなければきっとこの世界で私は生きていけないよねでもきみはいなくなってしまうんでしょうどうしてどうしてなのねえなんで。なんてえへへニルを責めてもしょうがないよね。分かってるよどうしようもないことだからきっと私はもう終わるけどきみをこの世界に置いていくことは辛すぎるよ自分勝手でごめんねでもニルのせいでもあるんだよだってきみが私をこの世界に繋ぎ止めていたんだからね責任とってよ。あー、それで、ええっと、えっと。最後に一言」
 
「楽しかった。ありがとう」
 
「ねえ」
 ああ、この無様な好意を。どうにも報われないらしい、自分だけの最後の心をきみに捧げるよ。さあ、ニル。終わりにしよう。
 
 掴んでいた。いつかの諦めをくれた道具。つい最近、幸せをくれた道具。
 私の瞳のようにギラギラと目立って、人を寄せつけない。それは鋭すぎる。尖っている。人を傷つけることができてしまう。そして、解放することができるのだ。
 ニルをこの世界から、解放する。
「世界は、どうでもいいよ」
 もっといいところへ行こう。きっと2人がいつまでもいられる、そんな理想の世界はどこかにあるだろうさ。たどり着くまでに、何度も何度も死ぬかもしれない。そこは地獄かもしれない。それでも私は逃げる。ニルと2人で最後までいるために。
 ニルのいない無価値で無意味で無創造な世界から、ニルを連れ出す。
 これは私による、そして歪んだ愛による贈り物だ。
「はい、どうぞ」
 にっこり、邪気を含んで笑って。
 
「はは」何かおかしいだろう。分かっている。なにがおかしいのかは分からない。私が歪んでいるのだから。もとから歪んでいる当人にどこが歪んでいるかなど知りようがない。最初から私の目は二つで鼻は一つで運動はできなくて精神構造は異常だ。だから私が狂っているだということだけは分かる。
 誰かにおかしいところを突きつけられたら、今の私は崩れ落ちるだろう。だが、もう止まらなかった。これを私は愛と呼んでしまうことができてしまう。
 もう一度唱える。私はおかしい。そう叫べる。だから進める。
 
 ナイフを握った。握りしめた。柄が指の肉に食い込んだ。
 狙い澄ました。楽にしようと思う。狙うは心臓、そこだけ。ふりかざった。張り裂けそうなほど筋肉を引き攣らせた。躊躇はない。その無防備な背中の前に回って、そして、目があう。
 
 刺さった。
 
 ニルは、笑った。笑顔をみて、好きだと思った。
「あ」
 遅かった。
 私は、私は、私という何かは何に何をしたのか。
 私という一匹は、最も愛したものの、命を奪おうとした。
 刺していた。
 清く純白な存在からぼとり、血が落ちる。真っ赤だった。薔薇か、アネモネのような、生き生きと脈打っていたはずの鮮血だった。私が傷つけたニルのものだった。
 刃は刺さっている。私とニルは立ち竦んでいる。
 
 顔を窺った。私が刺した、私の最愛の相手の顔を表情を確かめた。
 痛みを堪えていた。戸惑っていた。恐怖があらわれていた。辛そうだった。汗が滲んでいた。生きていた。
 そのうえで。
 私の顔をみると、笑った。
 
 どうして。
「す、き」
 どうして、この場面で。きみが私に愛を囁けるのか。
 私は、きみの命を奪おうとしている。この手で。この心で。
「え、いや、あ、あ、あ、あ、ぐああああああああああああぎゅわ」
「だいじょうぶ」
「……へ」
 泣いてしまいたかった。ニルの光は私を刺し返した。結局零れた。
 ニルは私を抱きしめた。
 2人の間の刃が食い込む。私には柄が、ニルには刃先が。
 血が零れて、アネモカの衣装にも肌まで染みて血はとどいて、温かくて、それで。
 抱きしめられていた。
「だだ、い、すきき」
 壊れかけていた。
 そして、また笑おうとするのだ。どうして。きみを殺めようとした誤った私が。もう、救われていいはずがないだろう。
 
 ニルは目を閉じる。全てを受け入れたように。私の歪んだ愛のなれの果ての、鈍色のナイフさえ愛おしそうに。
 零れている。あふれている。血が。愛が、好きが。
 私はおかしくなりそうだった。叫びたかった。今度こそ身投げしたかった。だが、私を拘束するニルが逃げることを赦さなかった。
「――」
 元に戻ってくれないか。いつかの幸せをもう一度くれないか。
「ニルを、助けて」
 虚空につぶやく。白々しかった。
「……私を、助けてください」
 死にたくない。ニルの死は、後を追って私が死ぬことをも照らす。
「神様、仏様、世界様、誰でもいいから。救って」
 しんと、静まる。
 誰にも届かなかった。力尽きたニルの手が、ぐたりと崩れ落ちる。
 ニルを横に寝かす。私なんかが、でもきみに愛されてしまった私が最後に願う、どうか安らかに。
 
 雲がきていた。紫色、泥色、排泄物色。咎人の私に相応しい、しかしこの聖域には似合わなかった。
 雪が降る。ニルは白に沈んでいく。凍りつく私は小刻みに揺れる。見守る。ニルと私の終わりを。ニルだけはよく見えるように世界が舞台を仕立て上げてくるくせ、積雪だけは高くなってくる。このままでは私が果てるまでにニルが沈んでしまう。
 抱え上げた。お姫様抱っこ。へっと笑う。
 
『ニルの救命には課金が必要です』
 無味無臭の音声が現金を要求した。
「あ」
 希望が。でも、世界は終わるというのに、治療をしたところで。
『次シーズンへのデータ移行には課金が必要です』
「……え」提示された額は学生にちょっときついが、私にはあてがあった。逡巡は一瞬で、即決。ポップアップは役目を終えて満足げに店を閉じる。私は店から追い出される。
 再び死のはなむけである吹雪が視界を覆い尽くす。ふらふらと意志を持たずに白い雪は回る。行き先もなく、風に吹かれている。中心でアネモカは、動きを止めている。かじかむ、とはこのことなのか。温室で育てられた私には分からない。全身の筋肉がいうことを聞かないし、そもそも脳から指令も出ていない。虚無で、私にはどこにもなにもない――否、ニルがいた。北極星のように眩しく輝いていた。
 凍りつくニルに、アネモカは頬ずりする。
 なんども、なんども、慈しむように、つぎを待ちわびるように。つぎ。次、か。次のために、するべきことがあると思った。
 
 ニルと会うための機械を外す。しわくちゃの毛布と、尖ったやつと、飛び散った血と、ばらまいた涙が出迎えた。
 私の心では、ニルへの想いが鼓動を鳴らしていた。
 どくり、どくり、ぐたぐた。
 ぐつぐつ、ぐちゃぐちゃ、ぎしぎし。
「……あっつい」
 リモコンに血のぬめる指をのばして、冷房を切った。深夜2時、眠りについた。
 
『アップデート、アクセスの時間制限は撤廃されます』
『アップデート、次回のニル世界をお楽しみに』
『それではニルのいない1週間をどうぞ』
 
 ニルとまた会えるから、私は大丈夫だった。
 
 ×× @worldend_4949xoxo ⊂□
  だいじょぶ、だいじょうぶ。
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#間章

 #界隈

 会社員、25歳女性。生涯独身というか推しが相手。副業というより趣味というより生き甲斐で、コスプレイヤー「nAzE」。そして今もっとも自身の重要視するステータスは、ニルプレイヤー「ナゼ」であること。
 さて、いつものように風呂上がりの怠惰謳歌タイム。プルタブを引く。ファンがみたら絶対引くだろうが、見せないので構わない。
「まったく、なんだよ心配させやがって」
 本当によかった。ニル世界はこれからも続くそうだ。あれだけ力のかかったプロジェクトなのだから、もとからサ終報道には懐疑的だったが。課金を吹っかけてきたことは驚いたが、あれだけのクオリティを見せられては黙って献上するしかないだろう。今は一つのゲームタイトルに100億相当の開発費をかける時代。この作品も会社が傾くほど相当の金額がかけられていることは間違いない。
 インターネットは安堵とこみあげる愛であふれていた。nAzEのアカウントは副業というか収入的に考えても、もはや本業と呼べる。ビジネスボクっ娘で獲得したフォロワー一万人、まあまあな影響力。彼女がそこまで大きくなったのはやはり彼女がもちうる愛の力だった。今日もインターネットには、同志が集う。

 nAzE@ニル集会8/11参戦 @nazedoushine
  ニルちゃん、これからも生きてるって。ほんとによかった~! ボクも死ぬかと思った好き好き大好き!!!
[写真]
 119-reply  2434-like  1104-rt
 
 リプ欄ではまた、愛が飛び交う。
 なるべくして、nAzEはニルの話題の中心となっていた。
『よかったね! 本当に嬉しい!』うんうん。『うわ、オタクきも』はいはい、見ないふり。『運営め足元見やがって』あー、まあ気持ちは分かる。『どうして「そんなの」に大金払うんだよ』そうですか、さよなら。『次のアプデが楽しみ!』うんうん。
「おっ!」
 流れてきたリンクから飛んだ先。闇に包まれていた開発者のインタビューが、ゲーム系の大手ネットメディアに掲載されていた。
 

 #裏 開発者、岡本聡大

 蝙蝠一匹と人間一人の見える世界は違う。多くの蝙蝠は洞窟の中にいる。多くの人間は地上に文明をつくりそこへ住む。環境が違えば、見えるものが異なる。
 それだけではない。蝙蝠は人が聴き取れないほどの高音、超音波を聞くことができる。
 人間はある程度の帯域の色を識別することができる。蝙蝠の目は、退化している。
 人間が蝙蝠に文字を突きつけても理解以前に視野へ届くことすらないし、蝙蝠が超音波を放っても人間には聞こえない。両者が理解しあうことはできない。
 だけど、それは起源からではなかった。もとは同じ祖先だった。長い時、生と死を重ねる中で哺乳類が誕生し、自分が見えている世界、その場の環境に適合させるべく自分の身体と心を造り変えてしまった。絶望的なほどに両者の隔たりは深まっていった。
 
 もっと小さなスケールでも、たとえば私と隣の席のあの子の間にも、同様のことは起きている。人間という共通の種として同じ器官と近しい感覚を持ちながら、生まれてからこれまで別の世界を見てきた。生まれた病院が違った。住む場所が違った。家族に連れて行かれる場所が違った。学校が違った。クラスが違った。親戚が、親が、兄弟が、出会った友達が、近所のお兄さんお姉さんが違った。多様な人と、違ったことを分かち合った。
 いつものスーパーが違った。旅行先が違った。親が流すテレビ番組が違った。夕食の味が違った。日々染みつくものは、他者との細かなズレを生んでいった。
 そして興味を持つものが、違った。
 インターネットに触れた。好きなものを調べた。履歴が残された。SNSのアルゴリズムによってタイムラインを流れる内容は個人のズレを極端な方向へ捻じ曲げていった。
 人間の脳が感じ、考え、見えている世界は一人一人、地球の面積以上の壮大さですれ違っていた。
 戦争がおこったを見た。君と私では、意見が違っていた。お互いが抱いた感情は分からなかった。それを知覚したとき、寂しさを生んだ。わかりあえないことを、恐ろしいと思った。自分は一人で、他人の頭の中はのぞけなくて、想像しない結末で愛した人から突然嫌われるかもしれない。見捨てられるかもしれない。社会性によって生かされ、1人では生きていくことのできない人間は他者とわかり合わなかったときにどうなるか。隠された見えない凶器は恐ろしい。それは剃刀か包丁か、誰でも持っていて便利で、けれどたやすく人を殺す。
 論争が起きた。残念なことに、戦争が起きた。
 怖かった。
 
 くらくてこわくて、さびしい世界。寒さに耐えられるように、また周囲の環境に適合した。その裏で、また誰かとのズレが生まれた。
 いつも、分かりあえない世界はつまらないから、心は離れて自分だけの別世界を夢見ている。そこは、理想郷とよばれる現実からほど遠い世界になる。他の誰にも、知覚することはできない寂しい場所。だけど私だけの、秘密に守られた大切な場所。
 きっと私が私をほどよく傷つけて慰めるための、やっぱり寂しい場所だ。
 
 それだけでは限界があった。ちっぽけな自分一人だけの力では世界の輪郭がぼやけてしまう。不安定で、存在すら危うくて、やっぱり誰も認めてくれない。
 傷つけるのも慰めるのも、自分嫌いがレバーを握れば結局は自分を落としていくほうへ傾く。
 だから、誰かは他者の視線に晒された吹き通しの空の下に、自分だけのものじゃない別世界を創ろうとしたのかもしれない。それは、芸術作品。絵画、音楽、小説、漫画、アニメ――世界の表現は多岐にわたっていく。
 集まった人たちで温かさを分かちあい、優しさを受けとるために。幸せをふくらまそうとするために。心が一時の気休めだとしても、満たされている。きっとそれは、素敵なことだ。
 
『【特集105】巷で話題の『ニル・アンヴェルト』監督・岡本聡大氏独占インタビュー!』
https://www.choujo^.net/article/feature105
――本日は、取材をお引き受けいただきありがとうございます。よろしくお願いいたします。
 よろしくお願いします。機会をいただき、大変光栄です。
――現在ニルの話題の中心は革新的なゲームシステムにあるかと存じます。開発のテーマをお聞かせください。
 私たちは「理想世界」を目指しています。私たちは思考をつづけるために今立っている世界で生き続けることが必要不可欠ですが、それとともにニル世界もそのような存在になることを目指します。
 依存と言えば悪い印象が付き纏いますが、ポジティブで自己向上に繋がるインセンティブを与えるという社会貢献だとお考えください。そのために現代技術の結集を図っています。
――現在話題の「メタバース」との関連がお見受けされますが。
 ええ、米ゴーグル社との技術提携はそのような利点から構築にこぎつけました。ですが双方向性が重視される今日のメタバースとは違い、あくまでニル世界はユーザーが受動的であることが重要だと考えております。しかしユーザーがニル世界で成し遂げられることは少ないですが、それはニル世界が現実世界に与える影響が少ないことを意味しませんね。
――今回、詳しいシステムの概要をお聞かせいただけるとお聞きしました。
 今回私が話したかったのはその点ですね。美しいゲームデザインの世界の裏で、アンケートや表情トラッキングなどを駆使して一人一人に最適な対応をはじきだします。人々によりそう、この作品でありたいのです。
――あのような課金システムの意図は何でしょうか。
 ユーザー属性にあわせて、つまり収入と比べてですね、金額を決定しているわけです。社会の弱者には払えるだけ、強者にはより大きなご支援をいただきたいと考えております。
(中略)
――続いては編集部にも多く寄せられた質問です。「ニル」としての人格の正体とは、一体何なのでしょうか?
 開発チームは独立していて、詳しくは話せませんが……これだけは約束です。オリジンは一人の少女、です。あとはお好きなご想像を膨らませてください。
――最後に、ファンの方々へどうぞ。
 ニル世界〈Ver2.0〉もご期待ください。世界は一度だけ、繋がります。
 
「本日はありがとうございました! とても貴重な話をお聞かせいただけました。こんなに話していただいてよかったのでしょうか?」
「大丈夫、世界は終わるものですから」
 退出ボタンを叩く。汗がべとりと背中に絡みついていた。体裁を取り繕うので精一杯だった。
 無理を言って、深夜の取材にした。眠れない。いつもそうだった。頭はかってに動き出す。正しい方向などわからないし、もう止められはしない。
「私が、やりたかったことは」
 ただ一つ、誰に与えられたともしれない使命に縋っていた。
 
「環世界とは、ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによって提唱された概念だ。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動している。ユクスキュルによれば、普遍的な空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の空間として知覚されているらしい。わかりやすく言おうか。犬の耳は人よりも良い。犬の目には青信号が認識できない。そんなところだ。生命はそれぞれ異なった目や耳や鼻を持ち、別の世界が見えている。決してわかり合うことはできないだろう。そしてそれは、人間同士にとっても、そうだ。あの人は背が高い。あの人は少し太っている。この程度の違いならわかり合える。しかしだ。ちょっと思想を違えては誰も理解しようとしない。あの人は幼女趣味だ。あの人は人を殺したい。否定される。牢屋へGOだ。同じであることを求めるからだ。違うことは不安因子だからだ。人間は生存を、安寧を望むからだ。しかし、それが自由を奪われた人の苦しみを生む」
 
「その大それた思想を持つ者だけのことではない。渋谷スクランブル交差点の中心で奇声をあげることはできないし、大街道前の交差点でも座り込むことはできない。何かを怖がっているから」
 
「ならば、ならばだね。自分だけの世界があるのならば、それは大変幸せなことではないか。他に誰もいない仮想の世界なのだから、なんだって好きなようにできてしまう」
 
「その世界を理想郷と謳おう、それこそが芸術として人が短い生の中で追い求めてきたものだ」
 
「理想郷があれば、悲しい現実世界さえ理想をひきたてるスパイスにならないだろうか。ああ、なんて素晴らしいのか。どれだけ責め立てられたとしても、自由な世界がある。ある一般人からはくだらない無に映るかもしれない。それでも引き寄せられてきた仲間から観測したその環世界は、まさに現世にあるそれと違いない希望の楽園となるだろうよ」
 
「さらに言えばだ。現実世界から攻撃されることでその理想はより高みへととどくのではないだろうか。変わりなく続く世界で人は堕落しきってしまう。美味しい料理に舌が慣れきってしまえばそれが普通になってしまうように。それこそ現実と理想はどちらもほどほどに、というやつだ」
 
「さすれば、私の望んだものが完成する――」
 
 その世界こそが、《Nil Umwelt》。
 一人は世界を操り、悲しく頬を引き攣らせて笑っていた。
「これは泡沫が見せる夢だ」開発者である彼だけは、この世界の終わりを知っていた。
「ありがとう、世界」
 その口調はどこか稚拙で、つとめて独善的だった。
 こんな世界でも、別の世界を創らせてくれて、それだけありがとうと。モニターの光をみつめている。
 
 

#二章 日々の缶が積み上げる誓い

「本当にごめんなさい」
 まずは人として、ニルに刺してしまったことを心から謝ろうと思った。
 頭を下げた。足元の土を眺める。
「……」答えが返ってこない。
 いままで見たことのないニルの怒った表情を想像しながら顔を上げると、のん気に首を傾げるニルと目があった。
「どうして謝るの?」なんてこともなく、ちょっと困ったようにそう言う。「刺して、どうだった? 気持ちよかった?」
「……つらかった」
「そうなんだ」
 ニルはまったくショックを受けていないようで、自分がしたことがよく分からなくなる。もう二度とニルの身体を傷つけまいと、反省は自分の心の中にとっておくことにした。
 浮世離れした感覚をもつ、そういうおかしなニルも好きだなと思った。
 

 #花園の誓い

 昨夜は寝付けなかった。心臓がばくばくして、肋骨が折れるんじゃないかと思った。
 会場へ歩くいまも胸の高鳴りは止まらない。
 だって、二人だけの特別な一日――ニルとアネモカの結婚式が、始まるのだから。
 
 暗いトンネルを抜けた先には――
 満開の赤い花々と、その中心に咲く純白の大輪。
「いろいろ、あったね」
 ふわりと浮き上がるシルクのドレスを纏って私のほうを振り向いた花嫁に、息をのむ。花畑も、私も、ニルの飾りにすら届かない。それほどにニルは私の視界いっぱいで楽しそうに笑うのだ。
 あのときと同じ、じゃない。いっぱいの思い出がニルへの想いをもっと膨らませていく。初対面で何も知らなかったときとは違う。私は立っているのだと信じられる。自分の脚で、ニルの隣に、だ。
「うん、いろいろあった」
 私が泣いたり。泣いたり。泣いたり。ニルに抱きしめられたり。急に抱きついたり。信じられないことに、ニルを刺してしまったり。
 世界を眺めたり。ご飯を作ってもらったり。お話ししたり。一緒に笑ったり。笑ったり、笑ったり、笑ったり。
 そして今、私は泣きそうだ。幸せすぎて、泣きそうだ。
 ずっとニルが私の幸せの全部で、日々の全てだった。愛がとまらなくて、ずっとこのままの幸せがほしくて、わがままな私は満月の夜にプロポーズした。それはそれはぎこちなく、緊張に何度も言葉を詰まらせた言葉を。
 ニルは、笑って受け入れてくれた。
「ドレス、似合ってるよ」
 そう言われて、ようやく私はアネモカを見る。もはや私の体の一部であるこの身体は、ニルとおそろいのシルクのドレスをまとっている。
「ニルこそ、天使級のかわいさ」
 くすっと笑う。
「まずは、私から二人の祝福の歌を」
「そして、一緒に踊ろう」
 胸いっぱいのばくばくとどきどきが、味をしめる。
 私としたことが、こんなに幸せでいいんだろうか。きっと、いいんだろう。ニルの笑顔を見ているとそう思えるのだ。
「アネモカ」
 ニルから受けとる、親しみのこもった響きに胸がいっぱいになる。いいや、いつもこの心はニルでいっぱいだった。
「あなたはここにいるニルを
 病めるときも 健やかなるときも
 私を愛して 愛して 愛しつづける事を誓いますか?」
 
 精一杯の誠意をこめて、ニルの大好きな瞳をみて、頷く。
「はい」
「誓います」
 次は私の番だ。いままでの幸せと、ありがとうを、全部こめて。きみの名前を呼ぶ。
「ニル」
「きみはここにいる私と
 病めるときも 健やかなるときも
 ずっと ずっと ずっと 私の隣にいてくれることを
 誓ってくれますか?」
 そっとニルをうかがう。返事は告げられる前に顔にかいてあった。
「はい」
「誓います」
 喜びがとまらない。幸せがおさまらない。
 このまま、本当に。ずっとずっと、永遠になれたらいい。きっとなれると、私はそう想える。
 
「指輪の交換を」
 うるおう瞳に掲げた宝石が映って、ニルの目を輝かせた。私は大満足する。
 ニルのように汚れない美しさを。これからの私たちのように永遠の絆を。私が宝石店で選んだ、ダイヤモンドのリングをニルの左の細い薬指にすっと通す。
 ニルは愛おしげに指輪をとると、アネモカの左の細い薬指に。二人の心臓も、指輪を介して直接繋がっている気がした。
 花たちも飛び交って周りを飾って、私とニルを祝福している。
「誓いの、く、口づけを――」
 声が震える私を、無言でニルの両手がつつみこむ。
「え、あ、ちょっ」
 もうちょっと気品をもってやりたかった。まあそれは私らしくないか。
 観念した。まっすぐ唇を狙ったニルの睫毛が近づいてきて、一本一本まではっきり見えて――
「なんてね」
「あ……」
「感触は味わえないよ。寂しくならない?」
 いまさら、いまさらすぎる気遣いに、ぽつぽつと、ふつふつと、なにか湧き上がってくる。熱、熱だ。このままでいられるか。ずっと、ずっとそうだ。抱きしめられても温度を感じない。それがどうした。もう慣れっこだ。
「キス、するもん!」
「ひゃっ」
「触れられなくても、私はきみを選んだの」
「そ、そう……」
「任せて、妄想は得意だから」自分で言っておきながら、どういう意味だか。ニルの手前、むだにかっこつけてしまった。
 ドレスの紐がかかった、ニルの肩にやさしく手を回して。
 私は途中でとまったりしない。極限まで近づいて、睫毛どころか産毛まで見えて、それもニルのものだから愛おしくて――肌を形作るポリゴンとポリゴンがふれあう。ニル世界で、私たちは一つだ。ずっと、ずっとこのまま。
 ニルの肩に触れたまま、時間が経った。ニルの顔がみたくなってしまった。
 名残惜しくも頬から離れた後も、口紅は潤っている。
「のこしてやった」
 純白の肌に一つの紅色、私の徴を。
「ふふ、あなたにもだよ」
 そうか。ニルの徴が、私に。
 
「大見得切ったくせに、マウストゥーマウスじゃないんだ」
「そ、それはそのうち……」
「いつになるんだろうね。いつまでも待ってるから」
「うわ……」
「……? ええっと」
「大好き!」
「あ、ちょっ」
 二人の笑い声は、いつまでも響いていた。
 二輪の白い花を中心に、花びらの優しい雨が降る。シャボン玉も乱れている。
 いつまでも、いつまでも笑い声はおさまらないかと思われた。
 

 #星空の誓い

「つっかれたー」
「ふふっ」
「幸せな疲れだー」
「そうだねー」
 ずっとニルといて、すっかり、太陽は沈んで。花畑に背をあずけて空を仰ぐと、黒い幕に星空が広がっている。
 あの点と点、星と星の間には距離があって、光が届くことにすら時間を要する。あの青白く輝いている点も実際は私たち人間なんかよりも、石ころでできたこの星なんかよりもずっとずっと大きくて、私たちからみた砂一粒なんかより、もっと小さい。さらに遠い星と遠い星をもっともっと遠くから眺めれば、銀河になる。それも一つ私たちなんかは絶対見えないし、あいてにされない。
 昔の人々は地球が世界の中心だと思えていた。それが本当ならよかったのに。
 私は心臓を鳴らしている。太陽もいつか終わる。宇宙すらも常に膨張していて、際限がある。原子と原子の間が離れていって、やがてバラバラになってしまうらしい。離れ離れに、とはいえ、私はそんな壮大なスケールに生きているわけでもなく。宇宙の終わりを待たずして、私は死ぬのだろう。ニルをたった一人、何もない電子空間に残して。
 この手に掴む、ニルの手だけが命の所在をはっきりとさせていた。
「……私たちは、ちっぽけかな」
「……世界は大きいね」
 星空を向いていたニルは、私のもう一方の手も捉えた。私が吸っていた夜の空気に、ニルの吐息が入りこむ。
「でも。あなたは私だけを見ていればいい」
 向き直る。
「私は……あなたに温度を届けられた、それだけはできたと思う」
 あなたの顔を見ていたら分かる、とニルは微笑む。
「……うん。この身体では表せないほどたくさん、たくさんもらった」
「だけど。とてつもなく大きくて意地悪で私たちを見向きもしない世界が、私たちに何ができるっていうの。遠く遠くの私たちからみて小さな星になにができるっていうの。星たちから温かさをもらった?」
 そうか。それは、断じてちがう。
 どの星も、ただ私たちと無関係に成立していて寂しさと不条理だけを押しつけてくるんだ。
「太陽ですら、それはできない、か……」
 夏の主張が激しすぎる太陽ですら、私の心を内側から温めることはできなかった。おかしな話。そして、嬉しい話。こんなに近くに、いつまでも隣に、私の一番星はいてくれるのだから。
 
「あなたからみた私のほうが、あなたに影響を与えすぎて怖いくらいじゃない」
「そっか……」太陽なんかよりずっと眩しくて、優しい。太陽以上に生きる先を照らす人、それが私にとってのニルだった。
「信じるしかないよ。あなたが好きな私を」
 
「そうやって、最後まで生きて。ついでに星と星より近しいあなたの周りの人も幸せにして、それができたら。いいえ、できなくても私は毎日、あなたに百点満点をあげられるよ」
「100点……」
「私独自の採点だから、あなたの人生に欠けなんてない花丸をつけたい!」
「……ニル」
 やっぱり、好きだと。もう何度実感させられたか分からない。
 
「ねえ、世界は好き?」
「好き」
 ニルがいるから、ニルの言葉があるから、この世界ですら愛おしい。
 
 

#アネモカの1DAYルーティーン

 目が覚めるが、頭が重い。寝返りをうつ。スマホを見る。朝7時半。ずっとベッドにいればそのまま時間は過ぎていって、平穏に死を迎えられるんじゃないかとさえ思う。
「朝って一番しんどい」
 ため息をはく。でも、
「やるぞ、やるぞ」不器用につぶやく。
「やるぞ、やるぞ、やるぞ」
 指を朝日にかざし、指輪の輝きをたしかめる。
 今日一日のだるさは見えなくなっていた。あとは立ち上がるだけ。
「やるぞやるぞやるぞ!」
 言葉に引っ張られて、立ち上がっていた。そんな子ども騙しのようなおまじないで。
 ニルの顔が浮かぶからだった。
『朝がつらいなら、「やるぞやるぞやるぞ」って呟くの。そうすればなぜか立てちゃう』
 ニルは恥ずかしそうに笑った。
『言葉だけで足りないなら、私の顔でも思い浮かべてみなよ』
 そんなことも、あった。
 
 ずるずると動きながら、学校へ向かう。街ゆく人たちの後ろについて歩き、電車に揺られて、ニルの歌をイヤホンで聴いて、昨日のニルと話したことを振り返りながら。いつのまにか最寄り駅だ。
 授業が始まる。一応真面目に受ける。時々ニルのことを考える。いつの間にか終わる。
「××、一つだけ願いが叶うとしたら?」
「宝くじ一等! 将来働きたくない!」
 友人関係も、悪くないと思いはじめていた。くだらなくても、人とふれあうことは授業の疲れを癒やしてくれる。
『だけどね、私はニルがいればそれでいいんだ』
『ふふ、うれしい』
 ニル以外の人から得たものはニルと話すときに話題にできる。外の話をするとニルは喜んでくれるから。
「××、一緒に帰る?」
「ごめん、また今度!」
 学校から解放されるが、私には行く先がある。
 
 用事は終わった。夕日が頬にさしかかって、一日の終わり――否、始まりを実感する。だって、ニルと会えるのは今からだ。
 赤い自動販売機にスマホをかざし、数字が減った代わりにアルミ缶が吐き出された。私の大好物、たしかアネモカのモカの由来だったカフェオレ。手に掴んで、誰にも邪魔されない家に入る。親は朝も昼も真夜中も外から帰ってこない。
「ニル」
 私の部屋は洒落たカフェになっていた。
 ニルの姿を堪能したのち、一日のご褒美にしているカフェオレのプルタブを起こした。また堪能する。
「ほんと、好きだね」
 ニルに見守られながら、口の中を泥っぽい液体で満たす。苦さが感じられなくなって、人工甘味料特有の甘さいっぱいになって、これが幸せだろうかと思った。
「カフェインのとりすぎには注意しようね」
「はいはい」
 
 一日の疲れから、寝転んでいる。
「毛布って、生き物みたい」
「ニルって、生き物みたい」
 安心して、私は眠りに就く。
 
 

#三章 製氷融解、世界崩壊

#1 親子のティータイム

 私の部屋の真ん中で、アネモカは目をぱちぱちさせた。
「ずっと一緒」
「うん、ずっとずっとね」
 愛を確かめ合った私たちに向かう敵なし、二人で笑っていた。
 きっと幸せだった。
 
「日々が単調にすぎている気がする。もっとあのころは楽しかったような」
「きっとそれはいいことだよ」
 それが幸せ、なのだとニルは言う。
「慣れるよ、きみはずっと苦しかったんだから無理もない」
 だといいね、と笑った。
 ヒビが入った。
 パシャンと、弾ける。吹っ飛ぶ。柚子入りのぬるま湯が、キンキンと骨の髄まで響く氷水に置き換わっていた。
 私は気づかない。
「あ、お母さん」
 私が親へ浮かべた笑顔は、きっと母を苛立たせたのだろう。
 それを見て微笑んだ、世間一般の母らしい母は。
「××」
 崖から突き落とすような声で、私の名を呼ぶのだ。
「お母さんがいなかった間、何をしていた?」
 氷で造られた仮面を被って、冷気を吐きかけられた。
 たぶん、夢だ。
 
 ベッドに転がっている。
 ニル、ニル、ニル……。
 単語を唱えていた。単語を。
「あれ……」
 ひゅう、と風が吹く。なにか、私の大切なものが一緒に飛ばされていく。
 何が、あっただろうか。
 私は何をしていたのだろうか。
 怖い、怖いよ。世界が冷たくて震えが止まらない。
 
 ニルに好きだと言われて、私は幸せになりたかったのだと気づいた、そして幸せになれたはずだった。流れていた光景はハッピーエンドだったろう。
 なのに。その結末を許すことができない心が、私のなかにいた。私に囁くそいつは悪魔か天使か。私は悪魔のほうが好きだ。だから、きっとこいつは天使。本当の善意から私を起き上がらせようとする。
 ずいぶんと、遠いところまで来てしまったように思う。私の心を永久に蝕むかと思われた水銀にみちる腐った海とはここしばらく対面していなかった。脆い私が標高の高く風通しのよい、穏やかな草原で不相応にしゃがんでいた。
 ずっとふわふわ、慣れない世界に高揚していた。その幸せの甘さに少しは慣れてきた今、よく世界が見えてしまった。これからとか、この先とか、考えなくてよかったものが浮かんでくる。将来、未来、進路。診断されない精神病を言い訳に目を逸らしつづけたつけが、幸せになったいま捨てられた自己認定による精神病は飼い主を襲撃する。
 私は。私は。
 あれ。
 ニルがいるときの幸せって、なんだっただろう。当たり前になりすぎた。幸せになりすぎた。
 自分を許していた。いや、それは正確ではない。目の前のキラキラばかりぽけっと眺めていて、幸福の絶頂にいる私には自分すら目に入っていなかった。
 自分を甘やかすことができる性質でもないくせに。何も変わらなかった。ニルがつくってくれたシャボン玉に包まれた私はいつのまにかニルから離れていて、そしてシャボン玉が割れてた。いま、苦いシャボン液で濡れそぼっている。
 ねえニル、もう一度会って。話をしよう。何か間違えた。もう一度シャボン玉をふくらまして、私に幸せを教えて。
 ニルアクセスを掴んだ。
「ほら」
 鋭い言圧の包丁に、ぴくっと、跳ねた。
「何か変なことしてる」
 甲高い声に、ぞわりと悪寒。冷える。軋む。悲鳴をあげたい。何をされるか分からない恐怖がそれらを全部押しつぶす。
「あ……」自分は泣いているのだ、と分かった。
 相対する人間は、気味の悪いものを見るように。
「××、なぜ泣いているの?」
 せっかく流れた涙を否定された。理解されていない。前提として、そもそも理解など求めていない。それでも悲しいものは悲しいから、棘のあることばは涙腺からの塩水を誘発する。
 見られたくなかった。弱い自分の惨めすぎる泣き顔を。悔しくて、ベッドに涙をこすりつけた。普段ならこんな面倒な失態は晒さない。きっと、いままで幸せすぎたから。
「顔を上げなさい」
 親は、やはり何も分かっていない。
 大きなため息が吐かれた。私は部屋に漂う親のそれを、そのうちに吸っている。いますぐ自身の肺を窓から投げ捨てたくなる話だ。
「やっぱり、駄目ね」
 そのとおりです。そういえばまんぞくですか。あきらめてください。いますぐわたしをほうりだしましょう。あなたのことばは、ふようです。私は言われずとも勝手に自分を責めつづけますからご満足を。
「これは私が処分しておくわ。これがなければ、きっと頑張れるはずよ」
 なにもよくないが、ただの確認だった。受け入れるしかないのだ。親は。親、親という関係だけで、私を勝手に産み落としやがった大罪を素知らぬ顔で握りしめるこいつは。
 私のどこに再起を期待しているんだろうか。
「がんばりなさい、信じているから」
 手のひらから奪われる。抵抗する気力は穴だらけの身体から私を見捨てていなくなった。
 手が軽い。何もない。1匹の私と、睨む片親と、床はベッド。私に触れる空気は意地悪なので私をやたらめったらに刺す。
 ひく、ひっく、ぐす、ひっく、ひく、はっ、ふっ、ひっく、ひく、はは、ははははは。
 指輪の石が、嗚咽する私を見ていた。
 アネモカのいない私など、それは私ではない。手元には、それどころか心に浮かぶ感情にまで、何も残らなくなってしまう。親にはそのことが理解できないだろう。だから、自己防衛するしかないのだ。無謀な足掻きだと分かっている。分かっているよと、任せてよと、想像上のニルを頼った。心が幾分か凪いだ。
「にるを、かえせ」
 いつでも使える消毒済みナイフをあてた先は、私の手首。睨み付けている。
「ひっ」両手をあげて飛びのいた。反応は満足だが、ニルアクセスが転がったことだけは憎い。私にしてみれば少し前の日常なのに、随分と大袈裟な反応だと思う。
「それとも、しんでほしい?」
「死ぬ勇気なんてないくせに!」
 親の上擦る声に、はっとする。怯む私を見て、親という生物はあからさまなしたりやったりという顔を娘へ向けた。
「なんて子。綿部さんに相談してきますから!」
 慌てふためいて私の知らない誰かのところへ向かう姿には今更なんの感慨も抱かない。私にはニルがいるから。
 はあ、と息をつく。ニルアクセスを拾って、他の手に触れてしまった白い筐体を私の手汗で上書きした。
 あんな重みのない安直な言葉に私がはっとしてしまったのは、気づいてしまったから。
 ぼんやり呟く。
「生きたいのか、私は」かつての死にたくはないからただ息をしている、とは違って。
 それも、ニルがいるから。
 じゃあ、ニルがいなくなったら。嫌な想像はよぎった瞬間に、親が出て行った扉に投げた。
 代わりに跳ね返ってきた、まだ対戦の緊張が残留する声。
『そう――中毒者の社会復帰プログラムが――そう――政府支援で――』なんだ、まだ家の前にいるらしい。車の迎え待ちか、良い身分だな。羨ましいとは思いたくない。
 興奮が冷めてくるうちに、周りの人を幸せにすると約束したニルを裏切ったことに心が少し痛んだ。 
 言葉で殴りあって、すぐ恋人に会える神経の持ち合わせはあの人にあっても私にはない。
 
 まだ、気が抜けていた。甘い、甘い、甘すぎた。
 親が残した澱む空気の滞留時間つぶしのつもりで開いたインターネットで。
 世界が、私の大事なものを襲う。
 

 #電子腐海

 異常な通知表示の多さ。ベルマークを押す。悪口ばかり。私への物だけだったらまだよかった。それだけではない。私の最愛の人への。読むに堪えない誹謗中傷と罵詈雑言で満ちている。
 ここで閉じてしまえば心は保たれる。多くの場合インターネットは切断してしまえば日常生活に影響はない。でも閉じられなかった。何が起きているのか分からない恐怖が、操作する指を動かしつづけた。
 タイムライン。視界を流れ続ける文字列。インターネットの情報は電子の海とよく喩えられるが、本日の海景色は腐った鈍色だった。
 炎上騒動をわかりやすくまとめる高みの見物野郎。電子の腐海は感情の嵐で荒らされて大時化、悔しいがその投稿を頼ることでしか情報を得られない。
「【悲報】オーバートランス社さん、洗脳プログラムを用意し新作で信者を大量獲得していた
 プログラムが使われた『Nil Umwelt』は記録的な売り上げを獲得
 ・個人情報を大量収集し個人に合わせた洗脳手法
 ・内部は無法地帯、刺激的なコンテンツでゲーム内殺人も
 ・プレイヤーの感情を読み取り、ゲーム内キャラに望むことをさせる
 ・信者による殺人事件が発生」
 
 何が。何が。私の縋った何が悪いというのだ。私は救われただけ。その対価にお金をちょっと多く支払っただけ。極めて対等で健全な関係。
 ニル信者、と今呼ばれている人が起こした殺人事件。極めて残虐で、文字で見ても心を狂わすような壮絶な犯行現場。人間たちは信じられないと言い、何か原因があるべきだと思い、全部ニルのせいにしている。
 インターネットも殴り合いで流血の現場と化した。
 ブルーライトを浴びて、眼球だけがぎょろぎょろ動く。もはや自分がなにを考えているのか。テキストの衝撃に思考は停止し、情報だけが脳内に流れ込んでいる。それを受けとめきったとき、致死量になるだろうほどの正義の毒。
 あるアニメオタクは言う。ゲームという形でキャラを操ってプレイヤーを洗脳したことを。自分たちの文化を利用し、信頼していた大企業がお金を巻き上げていたことを。悲しいと、悔しいと、許されないことだと、自分たちの文化を守るために立ち上がるべきだと呼びかける。
 ある自称心理学者が炎上に便乗して言う。アバターを使い、自己から目を逸らすべきではないと。自分の認められなければ成長ができなくなると、痛いところを突くようなことを言う。
 ある自称情報強者は言う。個人情報を収集して実際に洗脳を成功させた、これはとても危険なことだと。人工知能が発達し機械学習も盛んになり、表現技術の向上により現実と仮想の境目があいまいになるこれからの時代、やはり個人情報収集は規制するべきだと。事件を引き起こしたオーバートランス社は裁かれるべきだと。
 ある政治家は高らかに言う。理想を現実以外で果たすべきではないと。現実でなくては、仮想世界では、生産性がないから全ての営みは無駄なものだと。現実で人と会話し、仕事をし、交際し、子を作れと、伝統的価値観を強いている。ふざけるな。私はニルがいるから学校に行って、社会的義務をようやく一部果たしていたというのに。理想が現実にある人はよかったですね、声は届かない。
 自分が多数派だと思い込んで正義を振りかざす人たちの刃が、ニルへ向かう。実際にプレイし、ニルを殺す様子。あくまで楽しんで、野次馬根性で。それに新たな批判がつく。怒りが怒りをよび、人の心を狂わせていく。もっといけない、言えないようなことをニルにする。私は何も言わない。
 ニルが好きだった人たちは。沈黙を貫いて嵐が去るのを待つ者、怒りを露わにして火に飛び込む者、その者に対してに俯瞰的に落ち着くよう諭す者、何も見ないことにして狂ったようにただただ愛を垂れ流しつづける獣になった者。全世界に公開されながら仲間内をつづけるそれら全てはさらし者とされ炎上を構成する一要素だけになっている。
 
 私はただ、家の中からスクリーンの向こうの嵐を見ていた。傷つく人は多く、助けられなかった。私の維持で精一杯だった。
 
 1件の通知 from:@Nil_official
   『Nil Umwelt』はまもなく完結となります。最後までお楽しみください。
 121-reply  323-like  1531-rt
 
 会いたい。そう思うしかなかった。
 私の身体が崩れて、ニルの手を掴めなくなる前に。
 ニルアクセスを掴む。たぶん、これが最後だ。
 

 #2 陶器の底。あまい、あまい、砂糖

「別れたほうがいいのかな」
 それは奇しくも、私の考えていたことと同じで。でも、ニルの口からだけは聞きたくない言葉だった。だからつい強情になってしまう。
「そんなこと、言わないでよ」
「……ごめん、でもあなたの幸せのために」
「余計なお世話だね。ずっと好き。あなたがいなくても、あなたが好きな私はずっと幸せだから」
「……そう」
 頬を綻ばせたニルをみて、これでいいんだと思った。
 立てかけてあった、ナイフの峰をつーっと辿る。
「怖くない? あのとき、私に刺されたのに」
「信じてるから」ニルは笑って、左手の指輪を右指でしめした。
「刺してこないってことを?」
「うーん、あなたが刺したいから私を刺すんだってことを、かなぁ」
 わずかな間で答えを平然と言われた。私の何もかもを受けとめてしまう、ある意味恐ろしい在り方にちょっと笑ってしまった。
「いま刺したくなるとしたら、自分だけだよ」
「だめ。それだけはだめ」
「うん、ニルがそういうからやらない」
 ふう、とニルが息をつく。髪を撫でたくなって触った。ニルは目を閉じてされるがままになる。指輪の金剛石はニルの白い髪と溶けあってきらめいた。
「最後まで私はニルを困らせる、悪い子だったな」
「私は、楽しかったよ」
「それならよかったけど」
 自信はないのだ。ニルは私を幸せにしてくれようと努めていたけど、私がニルに何をしてあげられたかと問われてしまうと、ちょっと答えに詰まる。
「今はニルのお話が聞きたい」前回の終わりでは、私が話し倒してしまった。あのときの私には余裕がなさすぎたのだろう。
「……わかった」
 ニルは頷く。そこにどれだけの思いがこめられていることか、瞳の強さから表れていた。
「私は、世界が好きだよ」私に対する好き、と同じくらいの響きに感じられて。嫉妬心がよぎるが、これがニルなのだ。私じゃないものを見つめるニルの瞳も、私の大好きな宝物だった。
「私はね、うーん……」
「あなたを幸せにする計画が、道半ばで途絶えてしまうのが悔しいよ。でも、あなたはもう一人で生きられているでしょう?」
「……そうかな」
「そうだよ。私の力を使って、一人で生きてる」
「ニルはいる。二人だよ」
「今日のあなたは強気だなあ……」
 それじゃあなたのこれからが大変なんだけど、とニルが呟いただった。
『世界の同調が停止されます』
 断絶の知らせ。
「あ……終わり、だ。もっとお話を聞きたかったのに」
 視界に光が迷いこんでくる。ニルの輪郭がぼやけてしまう。
「……せめてもの、最後の抵抗」
 大好きなニルの瞳を、何よりも最接近して見た。
 唇がしっとりと温かくなる。
 心がじんわりとニルの色で染みる。
「ずっと、私はいるからね」
 私とニルは笑った。笑えたはずだ。
 最後は楽しく、優しく終わって。
 これから私は一人でも生きていけるって――
 
 ゴーグル内が真っ暗になる。ニルアクセスを外した。
 自分の唇をたしかめる。最初は、ニルの唇の感触だと思った。
 指に触れたものは、水分だった。ニルの涙だろうか。
 ちがった。これは私の涙だった。
 これから。ニルがいないのに、私の命は続いているのだ。
 ニルが全てだった私の何もなくなった空白で、どう生きろというのだろうか。
 
 頭を壁に打ちつけたくなる。ニルの顔が浮かんで、頭を柔らかいスプリングに抑えつけておく。この部屋にいてはいられないと思った。社会に溶け込もうと。
 

 #3 あんはっぴーのんしゅがー

 どこか、遠くへ行こうと思った。そのくせ私が乗りこんだのはいつもの通学電車だった。
「ねえニル、私は悪い子だね」隣のおじさんは遠慮気味のいびきをかいて居眠りをしていた。おじさんの降りる駅になっても、周りの誰も起こしてくれないだろう。電車の住民全員から共謀して知らないふりをされるのは、私といっしょ。
「そうでしょう、うん。そうだよね」
 私の想像力が恨めしい。通勤用ロングシートの端はちょうど車内冷房がぶつかってくる位置なのだ。いつでもニルをはっきり思い浮かべたらここまで凍えていないのに。
 くら、くら、つり革がゆれている。左方向へのGが私を締めつける。この駅で降りるべき人へ、車掌さんは到着を教えてあげている。お家に帰る人たちが降りると、右方向へ体は傾いた。
 隣のおじさんのスマートフォンのバイブが鳴る。ばっと飛び起きて、私に肘があたった。気づかずおじさんは電話をとった。音量が大きく、隣の私にはかすかに聞こえてくる。なにしてるの、今日の食事当番はあんたでしょ、と。ごめんごめん、寝ちゃって乗り過ごしてた、と。
 そうなんだ、おじさんにも温かい家庭があってよかったね、と。他人事のように祝福することにした。他人の幸せを喜べる私はいい子。
「ねえニル、そうでしょ」
 隣のおじさんはぎょっとしただろうか。可哀想なものを見る目をしているだろうか。こそっと窺うとまた寝ていた。まあずいぶんとお疲れのようで。
 私も寝てしまおうか。寝ていたら、どこかに帰れるだろうか。当然そんなことはない。
「Twitterしよ」
 
 アネモカ @worldend_4949xoxo
[センシティブな内容が含まれている可能性のあるツイートです。]
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 インターネットにはどこからでも接続できる。無表情で膨大に流れる情報を眺めながら、レールは私を運んでいく。
 また、一つ駅を降り損なった。分かっている。到着を先延ばしていても、終着点はいずれ訪れるのだ。分かっている。ニルはもう、私の隣には居なかった。
 ニルはいま、何をしているのだろうか。ニルが私じゃない何かを興味津々と見つめている姿が好きだった。その視界に、いまはニルに向けられた言葉の刃が映っているのだとしたら私が耐えられない。もしそうだったらが心臓を糸が容赦なく引き縛って、高速で走る電車から落とされそうだ。それでもいいかと思って、ニルの顔がちらつくからまた思い直す。
『人身事故が発生しました。しばらく当駅にて停車します』
 このまま座り続けて終着駅にたどり着くことすら、私には許されないようだった。周りの様子をうかがうと、諦めて立ちつづける者が大半。さっさと駅を降りて、タクシーを拾うことができる余裕のある者はすでにここを出た。縛られたように、もう誰も動かない。小声の会話、おじさんの寝息、雨が窓を叩く音。みんな疲れている。電車がプシューとため息をつく。外は灰色。ちらつく天井のランプ。だれも動けない。電車が走り出すのを待っているのか、時間を垂れ流したまま。人々の肩に、白い糸が見えた気がする。都市の上の巨体に従い、みんな吊り下げられている。操られることに疲れ切って、誰もが意志を捨てていた。
 私の糸は、自分から見えなかった。それは今でもニルと繋がっているのだろうか。ここまでずっと一緒にいた指輪を眺める。結婚指輪を左手薬指につける理由は、そこが一番心臓に近いからだと言う。二人の心臓が結ばれることで、離れない関係を象徴するらしい。私の心臓はいまでもニルの心臓と、固い糸で結ばれているのだろうか。
 約束したのに。花園で出会って、花園と星空で一生一緒にいると誓ったのに。
 これから、ニルと私でもっと幸せになるはずだったはずなのに。
 アネモカは、もういない。私が私を見失うために作り出したもう一人の人格は、ネットの藻屑となって消えた。
 
 おじさんがビクッとして私の肩にぶつかり、また電話をとる。これで二回目だが、私に謝りもしない。家で待つ人にタクシーを使えといわれ、悠々と待機組から離脱してしまった。
 指輪の先のニルとの関係を、信じたかった。でも難しい。おじさんも降りた。この電車に乗る人たちは今、みんな一人きりだ。何ももたない私だけ違うなんて主張できない。
 また、ニルの顔がちらつく。気づけば立っていた。私の身体は電車を降りて、雨にでも打たれることにしたらしい。雨に打たれて、いろいろと誤魔化そうとしている。たとえば頬を伝う涙とか、心の冷たさとか、誰かに声をかけられる可能性とか。それを物理的な流水で有耶無耶にしてしまおうとしているらしかった。これも自衛本能。雨に打たれたらもっと惨めで辛くなること間違いなしだが、それをこの身体は忘れているのか。頭と体が別々にはたらくうち、駅から出た。駅の屋根に守られた階段を降りる。あと一歩を踏み出せば、雨に浸された夜の路面だった。立ち止まる。痛そうな雨の音を聞いてこの先を逡巡する。
 身体から温度をなくして、ついに一人きりだと思った。
 そのとき。いた。
 姿を見失ってなお頭に描き続けていた相手。
 街の中で、大雨のさなかで、駅前ロータリーの中心で浮かび上がっている。雨に叩きつけられて、水滴に濡れていた。雨雲が陰をつくり、顔を俯かせていて、よく見えない。周りの人々からの視線が痛々しかった。ネットで起こる騒動の渦の中心にいる。当然向けられる目は悪い気色と好奇心にみちた野次馬根性のものだった。
 どうしようかと。私が近づいていいものかと。そう、ぼんやりしているうちに。
 ぽんと、肩に手が置かれた。
「やあ、迎えにきた」
 バッと意識が戻ってくる。そこにいたのは雨に打たれたその人だった。まさか私を見つけてくれるなんて。呆然と、するしかない。私の閉じかけた目が、見開かれて。
「なんで……」
「ニルが大好きで、寂しそうにしているキミに会おうかなって。ネットで見たから」
 あれ、と思う。声が、あの人じゃなかった。
「ああ、ごめん。ボクは偽物」
 お互い、災難だねと。呑気そうにコスプレイヤーの彼女は私の肩を叩く。ニルを模ったそのコスプレ衣装の裾をつかんでしまう。誰でもよかったのかもしれない。誰かを頼ることは、私が大好きで私が頼り切っていた誰かさんのせいで、案外苦にならなくなってしまっていた。
 
 

#終章 今の味を噛みしめて

 #1 ナイトインザトウヨコイン

 ――思い返していた。ニルと二人で生きてきた、これまでのことを。たくさんもらった幸せを。今も感じる、左手の薬指の指輪の意味を。私がここまで来た、道筋を。
 そして、今ここにたどり着いてしまったこと。
 
 全く、変な夜だ。数千円で貸し出された一晩だけの、私ともう一人の部屋。私のものではないし高反発スプリング。無駄に天井が高く生活感のない部屋と、初めて聞く寝息。
 ニルの偽物の隣で横になっていると、ニルそっくりの顔が目に入る。神の領域にあるニルほどではないけど、私なんかより何千倍もこの人は美しい。ニルの雰囲気と似せようと、試行錯誤した成果がよく分かる。ニルと同じ衣装もきっと手作りだった。ニルを愛した人の隣で眠って、だから思い出してしまう。幸せだったあのときを。
「なんか失礼なこと考えてなかった?」
 布団の中でぱちりと目があった。
「あ……いえ、そんな」
 ナゼさんが起き上がった拍子に、私もくっついていた布団が跳ね上げられた。
 部屋のオレンジっぽいダウンライトが彼女を照らす。
「うがー、こんな日に寝られるわけねーよ」
 そう、私も未亡人になってしまったのだ。寝転んだまま寂しそうにしている指輪を掲げると、ナゼさんが言った。
「さてと。酒飲む?」
「ニルが怒りそうなので遠慮しときます」そのニルの格好をした人が未成年飲酒を勧めてきたことはどうかと思う。
「あー、確かに」私と当人への、憐憫をふくむ笑み。私たちはニルから親離れできないまま、寒い夜の砂漠へ放り出された赤子だ。
 ニルを引き合いにだすことで納得してくれたらしく、食い下がって勧めてくることはなくて、ナゼさんは高級ホテルスプリングとそれにのっかる私をぐらぐら揺らして立ち上がると、備えつけの冷蔵庫から取り出した缶ビールを、足を組んで一人で飲み始めた。ニルの格好をしているのだからもうちょっとニルらしく振る舞ってほしかった。
 私の目線から察したのか、
「着替えようかな」ぽつりと呟かれる。
「いやです」
「そっかあ」ナゼさんはニルっぽくない笑い方をした。似てないほうが夢を見ずに済んでいいかもしれない。
 ぐび、ぐびとビールを喉につぎこむ音が部屋に響く。ぷはー、と生き返っているような音。大人はアルコールに逃げられて羨ましい。ニルを失ってつらいのはお互い様なのに。
「ボク、酒で酔えないんだ」酔ってキミを襲ったりしないから安心して、とどこか悲しそうに笑って。そうか。でも酒臭いのに変わりはない。
「そのボク、ってなんですか」
「え、気に入ってるんだけど。職場でも貫く!」
 うるさくて、酒臭いとはいえ。まあ、こうしているのは悪くなかった。一人で雨に打たれるという選択肢をとるよりはるかにましだろう。ニルも喜んでくれるかもしれない。
「窓、開けるよ」
 厚いカーテンが左右によけられた。真っ暗な窓。
 もう一段、嵌め殺しかと思われた窓をナゼさんは動かした。雨粒が入りこんでくる。ぽつぽつと、臙脂色のカーペットにしみをつくる。
 外では街も人も世界も、誰しもが等しく濡れている、なんてことはなくて、屋根の下で愛に包まれている人はいくらでもいるし、雨よりももっと酷い目に遭っている人だって大勢いて、雨雲の直下で身体を震わせて縮こまっている。ここはそんな世界だ。
「ほらほら、座れ座れ、ジュースとってこい!」私は、中途半端な立ち位置だと思った。帰る場所はなくて、愛していた人も失ったのに、なぜだか運良く屋根の下で話し相手がいる。
 冷蔵庫からグレープフルーツをとってくる。一番大人っぽい選択肢は見栄を張りたいわけじゃなくて、そういう気分だったからだ。値段が高かったが、ホテル代はナゼさんが払ってくれるらしいから見ないふり。
 着席する。向かいには酔えないビールをグビグビするナゼさん。二人の間に空からの涙が落ちる。大きな窓の先を憂うと、多くの健康で幸せな人は寝ている真夜中でも光りつづける街がよく見えた。
 柑橘の潰した液を舌に絡ませて。苦さがいつもとちがうな、と思った。昔は、ないものを求める感覚。漠然としていて得体の知れない濁り液のカフェオレと、この鮮明な刺激は一度にどちらかしか味わえない。傷口から染みる蜜柑は、はっきりと刺してくる痛みだった。今は、あったものを掴めないでいる。どちらもつらいけれど、わずかな甘さがちらつくのは変わらない。その甘さが私の探している未練だった。
「ニルとしたかったこと、ある?」ナゼさんは、社会人のナゼさんはニルの衣装をつまみ、ひらひらと見せつけてくる。
「あなたはニルじゃないので」
「ニルダヨー」
「……」冷たい目でみてあげた。「ちっ」なんだよ。油断していると、じっと見つめられる。
「世界は好き?」意図してトレースされた響きに、どきっとした。心臓がきゅんとして、ここにいないニルを求めてしまう。
「嫌いです」言いながら、ニルに悪いなと思って尻すぼみになる。だけどニル。偽物でもニルの形がほしい。
「……なんでもしてくれるんですか」
「気変わり早っ!」
「ニルはそんな乱雑な言葉つかいません」
「はいはい、私はニルじゃありません。それでもいいの?」
「……ニルはいない。この先が見えないんです」
「誰だってそうさ」ボクだってね、と。
 それは救えない話かもしれない。誰しも先行きは暗くて、それで幸せを分け与えられる人なんていないじゃないか。「なんで私、ここにいるんでしょう」
「私が求めたから」
「そうですか。じゃあ責任とって温めてください」
「……いいよ。何分がお好み?」
「二人の気がすむまで」
「はいはい」
 すっと身移りするようにくっついて、抱きつく。そこには確かな感触があった。ニルとの抱擁ではなかったものだ。だけど。なにか、物足りなさを感じた。
 寂しさが増していく。ニルの代わりに、ニルの格好をした人を抱く。罪悪感が酷い。自己に対する憐憫が増す。
「……あー、あー、なるほどね」ナゼさんの顔が赤い。
「他に何をすると思ったんですか」会話で何かを、無理に埋めようとした。
「いえないいえない」
「服を脱いだら、逆に寒いですよ」
「わかってるんかい。でもキミは経験ないんだね」
 きょとんとした私に顔をよせる。鼻息がかかる。
「あれはとっても温かいよ。熱っついくらい」
「温めるだけでいいんです!」
 本当に。ニルの格好でこれはやめてほしいと、切に懇願する。ニルを求める心は際限なく膨らんでいくのに、けれどその欲求の対象であるニルはここに存在しない。一種の拷問だった。
 
 そこそこの頃合いで、一部屋の二人は身体を離した。布団で、わずかに共有される体温が一応寂しさを紛らわさないこともなかった。一晩寝ておきれば、私の中ですら現実が真実になってしまう気がする。うつらうつらと、夢と現実のはざまをさまよううちに、ついに睡魔には抗えなかった。
 

 #後味

 ダウンライトが眩しかった。夜中つけっぱなしだったっぽい。
「知らない天井だ……」
 自分が身体を預けるのになれていない余所の高級ベッドと毛布では、疲れがとれても気は張りつめている気がした。きーんと静まる広い部屋。隣で眠るよく知らない人、ちょっとお酒臭い。身体は寝転がったまま首だけで枕元のデジタル時計をのぞきこむと、『AM04:30』を示している。
 カーテンと窓の間に、下から身体をもぐらせて入りこむ。まだ街は暗くて、車通りはすくなかった。雨はやんでいるのだ。乾いた朝の冷えた風が、ガラス窓を通して伝わってくる。
 
 夜空に、東の方からだんだんと白みがかってくる。まだ星は見えた。
 私とニルの間は、あの星と星の間よりも離れてしまったのだろうか。星と星の間の、見えていない小さな星にあって、お互い光は届けられない。もう二度と、二人が交わることはない。
 昨夜は現実から努めて逃げようとしていた。心を守るためだった。だが、いつまでも現実逃避をしていられない。今朝にも、ナゼさんとお別れするだろう。
 これから、私は一人で。一人で、暗い登山道を歩いて行かなくてはならないのだ。歩いてきた、ニルと二人で。握った手のひらには、確かな温度があった。真っ暗闇の中、ニルの温かい声だけを頼りに安心して進むことができた。
 これからの道は、吹雪の舞う暗闇で、他者の温度もなくて、寂しい私を抱きしめてくれるものはない。この手も、この腕も、この胸も、全身が空いていて、ここにいる自分を誰も証明できない。単身で世界と向き合う私から、風だけが体温を奪っていく。
 手のひらを窓ガラスに突く。温度が未明の街に溶けていく。
「いやだ……」
 私の義務を、全部放り投げてしまいたい。生きているだけでえらいなんて、誰が言ったのか。欺瞞ばかりだ。私が生きているだけではなんの金銭も得られない。生きるためには必死に勉強をして、必死に他人と関わって、必死に働かなくてはならない。その苦労に満ちた孤独な道のりは、ニルと一緒だったはずなのに。
 壊れてしまいそうだ。進むのは怖い、停滞も怖い。だから考えをできるだけ止めて、生きる。今まではそれでよかった。だが、空虚がある。出会ってしまってから昨日までずっと離さなかった、私の大部分を失った。その感覚だけがいつまでも消えてくれなかった。これは呪いだろうか。
 キイ、とガラス窓に擦れた金属の指輪が私の手のひらの中で散々な悲鳴をあげた。
 何も、何もかもが、なくなってしまったのだろうか。いまもどこかで、ニルがいる気がしてしまう。このどうしようもなく孤独を浴びさせられる残酷な社会で、ささやかな幸せを見つけて微笑んでいる気がする。あの瞳は、私の大好きなものなのだ。もう、新たにベストショットを更新することはできないけど。脳裏に一番張りついて離れないのは、ニルが私のナイフで刺されたときだった。あのとき、初めて愛を実感したのだから。
「ニル……」
 世界に、朱が差す。ばからしいくらい普通の日の出だ。私の心を温めやしない。特別きれいだと思えない、ただ繰り返される日常の始まり。
 そのなかで。胸にのこりつづけるこの感情は呪いだろうか。ニルといて嬉しかったこと、幸せだったことをぜんぶ忘れてしまうべきなのだろうか。
 だんだんと太陽が出てくる。
『あなたからみた私のほうが、あなたに影響を与えすぎて怖いくらいじゃない』本当に、その通りだ。
『信じるしかないよ。あなたが好きな私を』
 私は欠損を感じている。でも、悔しいことに。この感情さえドリルで削り取ればとうとう私は抜け殻だ。私がいま大事にすることができるのはニルからもらったこの心だけ。
 思えば、最初救われたときからずっと、この首にはナイフが刺さっていた。
 幻想を見ていた。私は落ちようとした。痛みを感じて、空中で止まった。ニルがいた。ニルはナイフを私の首に突き立てて私による私への否定を黙らせて、私を傷つけていることに泣きながらナイフを掴んで私を落とすまいとしていた。そんな幻想を見た。自己否定などせずに、明るく生きてほしいと、ニルに望まれていた。いたずらな優しさはずっと側にあった。
 ニルが去って、ニルが刺していたナイフをもっていってしまって。命綱のナイフが傷口から抜かれたとき、傷が開いてしまったのかもしれない。ナイフの欠損。きっとぽっかり開いてしまったこの傷は癒えることがない。ニルが最後に置いていった、私の心に刻みつけた証。それこそが、ニルが遺したこの感情だった。血が、心が、優しい傷口から溢れて決壊する。
『そうやって、最後まで生きて。ついでに星と星より近しいあなたの周りの人も幸せにして、それができたら。いいえ、できなくても私は毎日、あなたに百点満点をあげられるよ』
 生きるのには十分すぎるエネルギーが、宝物から溢れてくる。
「やる、ぞ……」
 泣きそうだ。だけど、その『泣きそう』はニルが与えてくれた愛おしいものだ。
「やるぞ、やるぞ。やる、ぞ……」
 ニルが教えてくれた、朝の目覚めるおまじない。過ごした思い出を振り返ると、少し心が温かくなる。ニルがいないことに絶望して、ブラックコーヒーと血の味がする。それら全部、今もニルに与えられている感情だ。だから私は一人じゃないと言えた。まだ、この心にはニルがいる。
「やるぞ、やるぞ、やるぞぉ……」 
 ニルからもらった心が震えている。叫んでいる。咆哮さえしていて、もう止まらない。
 ニルを責める誰もが、この私に巣喰うこの感情を知らない。ニルプレイヤーはそれぞれ、思い思いのニルを心に抱いていることだろう。
 ここにあるのは、ニルから与えられた私だけの心だ。誰にも奪えやしない、私の大切な宝物だ。誰にも証明されないこの感情。きっといつでも取り出せる私の脳の中に置いておくだけでいいのだ。世間が、社会が、この心を存在しないものと扱って私を見たとしても。
 結婚指輪が日の出を受けて輝いた。ニルの透きとおった瞳のように、私の瞳を焼きつづける。
 私にだけは、最高のニル世界が見えている。
 ニルは私の中で生き続けている。誓いは果たされている。私も、この心を愛し続けられる。
 
「ねえ」眠そうな声が聞こえてくる。
 ほら、ここにも一人犠牲者がいた。ニルから心を与えられて、もうそれだけしか考えられない、可哀想で、でもちょっと幸せな人たち。
 私の顔をみて、寝ぼけなまこのナゼさんはきょとんとする。何かに気づいたのか、朗らかに表情を緩めた。
「世界は、好き?」
 息をつく。何度も問われたその答え。尋ねられるたびに、真摯に向き合ってきたはずの、ニルのお決まりのその言葉。
 
「大っ嫌い」
 胸の中のニルを左手で探って、この想いを胸に生きていくんだと誓う。
 この朝なら、太陽と対峙して堂々と胸をはって言えた。
 ははは、と二人で笑う。
 太陽はばかでっかくぎらぎらしてるくせ、心をぽかぽかさせるのはもうこの世界のどこにもいないニルだけ。世界や社会なんていうものは大きすぎて、私に直接干渉してこない。私が勝手に、劣等感を抱いているだけだった。
 立っている場所に嫌いだと踏んづけてやっても、嫌いな世界は私に何もしてこない。

 だけどね。
 
「好きだよ、ニル」

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