見出し画像

100日後に死ぬ僕の手記 〜思ったよりも変わらなかった日常

自己紹介

牧野 健太郎
1975年、札幌生まれ。25歳からWebディレクターとして独立。
現在は東京在住。
2021年春に慢性骨髄性白血病の診断を受ける。
家族は妻、中一の娘、横顔イケメンの子猫。
趣味は読書、スポーツ、酒を飲むこと。


 何も持っていない自分が嫌いだった。
 貧乏な家に生まれ、さしたる才能にも恵まれず、何なら他人より欠けているものの方が多い子供だった。
 他人と協調できず、かといって自分自身の力で何かを成す力もなかった。
 足りない実力と無駄に高いプライドの狭間で、いつも苦しんでいた。
 そんな未熟な俺は25歳のとき、不意に神様から生まれ変わるチャンスをもらえた。

 当時勤めていたWeb制作会社が潰れたのだ。
 俺は再就職しようと考えていたが、そのとき担当していたクライアントが独立を勧めてくれた。
 俺が独立するなら、仕事を自分のところへ発注してくれるというのだ。
 独立の「ど」の字も頭になかった俺は、しかし、そのチャンスに飛びついた。単純に好き勝手な環境で働いてみたかったのだ。誰かに批判されることも値踏みされることも死ぬほど嫌いだったから、誰も自分を評価しない場所に行きたいという、実に消極的な理由だった。

 しかしこの経験が自分を成長させてくれた。
 他人に評価されたくないという思いは、自分自身が全ての結果を受け入れる責任感へと昇華し、他人と働きたくなかった思いは、仲間を受け入れ助け合う大切さという気づきをもたらした。

 明確に生まれ変わったのだ。

 それからは仕事を通じて少しずつ成長を実感することが生き甲斐となった。
 相変わらず何も持っていなかったけど、積み重ねた経験は足りない実力と自信を少しずつ補ってくれた。
 そんな凡庸だけど充実した人生に俺はある程度満足していた。
 これまでは。

 2021年の春、ひょんなことから慢性骨髄性白血病という、いわゆる血液の癌が見つかり、俺と家族の生活が一変した。
 治らない病気とこれからどのように付き合うか、それほど長くない残りの人生をどう過ごすか、俺が居なくなった後の家族の人生をどのように軌道修正するか、21年連れ添った妻と幾度となく語り合った。

 2022年の春には俺のたっての希望で猫を飼うことにした。家族が増えたことで俺はもちろん妻や中一の娘は喜び、それまで明るいながらも微妙に暗い影を落としていた我が家は、笑顔の絶えない時間が増えた。
 病状は治るとまではいかないまでも悪くはならず、比較的良い状態で安定していた。
 俺はこのまま病気と共存しながら、長生きはしないまでも、しばらくこんな風に変わらない日常を生きていくのだろうとさえ思っていた。

 そして2022年の冬、状況が一変した。

前書き

 目の前の大きな窓からは西日が容赦なく責めてくる。
 耐えきれずにカーテンを閉める。でも完全に閉ざすことはせず、少しだけ開けておく。
 何故ならそこから富士山が見えるからだ。
 この景色は俺のお気に入りになった。北海道で生まれ育った俺は大人になってから富士山を初めて見て、その大きさにとても感動した。南国の子供が初めて雪を見た時に抱く感動と近いかもしれない。
 それ以来、この東京に移り住んでからも富士山を見るたび小さな感動と幸せを感じることができる。いつか富士山の見える家に住みたいと思っていた。
 2022年12月、その夢は予期せぬ形で実現することになった。

 今日は2022年12月24日、クリスマスイブ。いつもなら食傷気味のクリスマスソング(マライヤやらワムやら)が街中で流れている。テレビをつけたってニュースのBGMとしてどこまでもマライヤに追いかけられるが、今は聞こえない。
 ここは浮ついた雰囲気を極力出さないように配慮され尽くされた空間、「病室」だからだ。
 でも静寂という訳ではない。計器類の規則正しい機械音と忙しない看護師たちの足音、外から漏れ聞こえてくるサイレンの音で、お世辞にも気持ちいいとは言えない音に囲まれている。
 俺は今入院している。
 慢性骨髄性白血病の急性転化という状態で緊急入院した。
 病気のことは詳しく書かないが、状況だけ端的に示すと「余命数ヶ月」だ。
「余命数ヶ月」というと、数ヶ月の時間が約束されているようにも思えるが、そうではない。
 何かちょっとしたきっかけで明日すぐに命を落とすリスクがあるし、何も起こらなくても1年は持たないだろうという意味だ。
 だから正確には「余命数日〜数ヶ月の間」と言うことになる。

 そんなわけで俺は緊急入院させられ、不本意ながら人生最後のクリスマスイブを今こうして一人きりの病室で、文章を書きながら過ごしている。
 もっとも、完全にクリぼっちというわけではない。
 この後家族が病院に来る予定だ。
 今は新型コロナの感染拡大による影響で病院が面会を中止しており、入院受け入れすらも拒否する閉鎖病棟になっている。
 だから家族が病院を訪れても俺と会うことはできない。
 本来ならば。
 だけど俺にとっては家族と過ごすはずだった最後のクリスマスだ。
 だから隠れてこっそり会うことを家族と計画し、このあと人目のつかない場所で少しだけ会う予定だ。
 (コロナの感染拡大防止という理由だけで1ヶ月間ずっと会えないのだからこれぐらいのわがままは許してほしい)

 なぜ最後のクリスマスイブにこんな文章を書いているのか。
 それは、自分が特殊な状況になって初めて見える景色があったので、それを形に残してみたいと考えたからだ。
 今「特殊」と書いたが、本当は特殊でも何でもないということにも気づいた。
 そういった学びを自分の中だけに閉じ込めておくのは勿体無い気がしたのだ。
 だから、自分の死についてリアルタイムで考えていること、感じていることを残したいと思う。

 自分の死を考えるのはとても個人的な営みだ。
 今の気持ちは自分以外の誰にも分からないだろうし、共感されることもあまり無いだろう。同じような立場の人と話したって死生観は人それぞれだ。
 もし俺が目の前の「死にかけた自分」と対峙したならこう思うだろう。
「若くして死ぬのは(いうほど若くないけど)、やり残したことがたくさんあり悔しいのではないか。」
「残していく家族を思うのと心配でたまらないのではないか。」
「死ぬ恐怖と日々戦っているのではないか。」
「最後まで諦めずに強い気持ちを持とうと必死なのではないか。」

 でも実際はどれも少しずつ違う。
 人によってはもちろん当てはまる人もいるだろうし、もし強い気持ちを持つ起業家のようなタイプだったら、自分の気持ちや考えを出来るだけシンプルな方向へまとめ上げていき、病気に対して不退の精神で立ち向かう人もいると思う。
 だけど自分はそんなタイプではないし、もっといろんな気持ちにグラデーションがかかっているような感じだ。
 当然どちらが正しいとか優秀ということではなく、ただタイプや種類が違っているだけだ。

 でも世の中で触れる死にまつわるコンテンツ(映画、小説、伝聞など)は、割とシンプルに語られていることが多い。
 死を目の前にした当人は最初から整理された気持ちや考えを持つわけではない。
 ぐちゃぐちゃした気持ちや考えを少しずつ整え、自分なりに折り合いをつけ、何か思いを定める。
 そして綺麗に整えられた結論のみが語られていく。
 (もちろんあえて整えているのであって、コンテンツとして適切な分量に調整するため高度な編集をされていることが理由なのは充分理解しているつもりだ)

 でもいざ自分がその立場になってみると、整えられる前のぐちゃぐちゃした状態こそが真実だということがよくわかる。
 きっと、気持ちの整理ができた同じ立場の人だって「本当はそんなに単純じゃ無いけどな」と思っているはずだ。
 単純じゃないし、そんなに大袈裟じゃないし、という感覚だ。

 だから、前述したような「よくあるシンプルな感想やなぐさめ」を人からぶつけられても「ちょっと違うんだけどな」となってしまう。
 ぶつけられる相手というのは俺の経験で言うと医師が多いかな。
 職業柄、話を円滑に進めるためにテンプレート的なコミュニケーションが必要なのは理解できる。けど、やはり赤の他人だなとも思う。当たり前だけどね。
 対して家族や友人はやはり配慮してくれて、いたずらに型へ嵌めようとしたり評価したりせず、ただ俺の気持ちを受け止めてくれ、残念という気持ちを表現してくれる。

 あ、誤解ないように断っておくと、周りから慰められたり励まされたりするのはすごく嬉しい。それは間違いない。他の人からはもちろん想像がつきづらい状況ではあるけれど、それでも友人達や大切な人が振り絞って投げかけてくれる言葉や表情は優しさに溢れていて、俺をとても幸せな気持ちにしてくれる。
 自分のために涙ぐんでくれる人がこんなに居るなんて、これ以上の幸せは無いよね?

 話を元に戻すと、自分が今感じている感情のグラデーション部分(多くの場合、結論を得ると同時に切り捨てられる部分)を表現してみたいと思い、筆を取っている。
 大変だけど大変じゃない、悲しいけど悲しくない、怖いけど怖くない、非日常だけど日常、そんな今の状況をできるだけそのままの形で、可能なら自分以外の人にシェアできれば面白いかなと考えている。 

11月 命の長さを知る

11月22日

 生活を正したいと思った。
 いまいち仕事の結果が出せていない。こんな時は足元を見つめ直すに限る。
 生活を正すには指針が必要だ。
 プロ意識。うーん、ちょっと違う。そう、「美意識」が近いかもしれない。
「左ききのエレン」を一気読み。深いわあ。
 人生のほとんどを本で学んでる。読書最高。
 あ、俺も左ききだ。

11月23日

 病院で急性転化の疑い。精密検査。
 不穏な空気が自分の周りを包み込む。

11月24日

 今日は仕事を休んで湖へ遊びにきたけれど、船に乗ったら思った以上に波が高くて嘔吐。
 極寒で連れの鼻水も止まらんし、まさに阿鼻叫喚。
 何となく友人に「俺、もう長くないらしいぜ」と言ってみたけど、言ってる俺が実感湧いてないね。

11月25日

 きっと急性転化してるな。
 だとすると余命3ヶ月ぐらいか。
 今やってるスパルタンレースのトレーニングどうするかな……。

11月26日

 これまで習慣化したことや積み重ねていることをこの先も続けることに、何の意味があるのかと考えてしまう。
 でもきっと続けた方が良い。病気を理由に歩みを止めても、暇で思い悩んで、かえって辛くなるだけだ。
 今までの生活をなるべく変えないことが大事だ。

11月27日

 ずっと本を読んでた。現実逃避?

11月30日

 通院の日。先週の検査結果が出て、正式に急性転化の診断が下された。
 これまで通っていた病院では対処できないということで、血液内科のある総合病院へ転院することとなり、一気に状況が変わった。
 突然命の砂時計が落ち始めたのを感じる。その砂が落ち切ったときに全てが終わり、そしてそれは自分が当初予定していたよりもずっと早く落ち切ってしまうようだ。
 もう残された時間が少ないことを心の底から理解した。

 その夜、妻と居酒屋で飲んだ。
 妻とは病気について事前に何度も話をしており、お互いある程度の覚悟をしていた。
 それでも最後通牒を受けたこの日に、なんだかうまく表現できない感情を抱えきれずに二人で酒を飲み、語り合った。
 最後ではないけれど、別れの酒だったんだと思う。
 もう21年も一緒に生きてきた。数えきれないほど一緒に飲んだけど、この先数えられるほどしか一緒に飲めないんだな。
 自分の死が近づくのはあまり悲しいと思わないが、この日の夜は胸が締め付けられるほど寂しかった。

12月 時間の長さと濃さを天秤に掛ける

12月1日

 終活というワードで検索し、やるべきことをリストアップした。
 とりあえず家にいる間にしかできない片付けを進める。
 不要なものはブックオフなんかに全部持ち込んだ。
 ふと、一冊の古本が気になり手に取る。
 『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』
 病気が見つかってからこれまで散々向き合ってきたテーマだったが、答え合わせも兼ねて読むことにした。

12月2日

 断捨離の基準が最高レベルに明確となったおかげで片付けが進む進む。

12月3日

 午前中に渋谷で用事を済ませ、午後は新宿でスラムダンクの映画を観た。

12月4日

 腕に小さなタトゥーを入れてみた。
 これまで興味はあったんだけどサウナに行けなくなるのが嫌で躊躇していた。
 でもこの前読んだ本の一節を気に入ってしまい、それをいつも見える場所に置きたくなり、タトゥーを思いついた。
 『Living in the Face of Death(死に直面しながら生きる)』
 フォントはタイプライター調でサイズは遠くからみると直線に見える感じで……なんて考えると楽しかった。
 ちなみにタトゥーを入れる前に一応妻へ報告したら、「推し(BTS)がタトゥーOKだから私もOK」とのこと。やっぱり面白いやつだ。

12月6日

 誕生日。
 いつもと変わらず、家族と一緒に慎ましく誕生日会。
「いつもと変わらず」ってところが良いよね。

12月7日

 転院先となる新しい病院へ行った。
 即入院と言われる。いや、そんなこと言われてもな。
 明日ディズニーへ行く日だし。
 やんわりと即入院を断る。
 ディズニーの方が大事。

12月8日

 友人とディズニーシーへ行った。
 アトラクションに乗って、美味いもん食って、酒も飲んで、楽しかったな。
 でも「また遊ぼうぜ」なんて言うたびに、これが最後かもな、って頭をよぎるのが切ないんだよな。

12月9日

 2度目の病院へ行き、入院を決めた。
 今すぐ死んでもおかしくない状況だったので、いつ死んでも大丈夫なように準備する時間を作るための入院だ。
 別に入院しても治ったりはしないけど、時間が作れることを期待する。
 これ、もし入院中に死んだらマジで後悔するな。

12月10日

 片付けを進めた。入院前にやれることをやっておく。
 この後本当に退院できるかはわからないのだから。
 夕方は娘の推し活について楽しく話をしながら二人でピザを食べた。
 ピザ&ビールもしばらく食べられないな。

12月11日

 髪を切りに行った。しばらく行けないからね。
 そのあと、駅前の証明写真機で遺影を撮った。
 こんなんで良いのか?さっぱりわからん。
 とりあえずググったら石原慎太郎の遺影が出てきたから、これを参考にしよう。

 夜に友人と近所のガストでお茶を飲んだ。
 俺の病気を最初から見届けてくれていた友人で、俺の状況を知りわざわざ駆けつけてくれた。
 生と死について一番語り合った相手だ。
 今穏やかな心持ちでいられるのは間違いなく彼といろんな話をしたおかげだと思う。
 「お兄ちゃんみたいに思ってた」って言われたのは何だか嬉しいな。全く兄キャラじゃないが。

12月12日

 最後の晩餐は何にするか迷ったけど、家でステーキを食べた。

12月13日

 入院当日。共同生活できるか不安。
 コロナのせいで面会禁止だってよ。
 ベッドから富士山めっちゃ見えるじゃん。
 これは気分が上がる。
 急遽妻が病院に呼び出されて医師と治療方針説明会。
 まあ、長くはないっていう確認と、俺の希望通りで治療が行われるかのすり合わせ。

12月14日

 毎年なぜか今日が赤穂浪士討ち入りの日って思い出すんだよな。変な呪いにかかってるな。
 今日も検査と個人的な後始末でバタバタしてる。
 考えることが多いな。

 友人からふたご座流星群の話を聞いたので、夜空を見てみた。
 AirPodsつけてスピッツを聴きながら、消灯後の病室の窓から外をずっと眺めていた。
 ふと暗闇の中から炎のような尾をつけた光の玉が斜めに流れ落ちる。
 しばらくすると今度は垂直に落ちた。
 流れ星をみると、昔のことを思い出す。
 まだ20代の頃、いつもつるんでる仲間がいて、いつも酒を飲んだり遊んでたけど、今日みたいな流星群のときに夜中みんなで近所の山を登って流れ星の大群を見たことがあった。
 んで、その中の1人が今の嫁。
 今日は離れて暮らす嫁と娘とLINEしながら流星群を見た。
 いい時間だったな。

12月15日

 今日から輸血開始。
 点滴と心電計で身動きが取れん。
 体を動かしたいけど、スクワットで心拍数上げたら看護師さんが飛んできそうでこわい。
 しょうがないので大人しくこの前撮った遺影の写真加工をした。
 そういえば死んだおじいちゃんの遺影も俺が加工したんだった。
 まさか自分のもやるとはな。
 せっかくだから美肌にしようっと。

 仕事の区切りをどうするか悩んでいたけど、仕事はもう辞めよう。
 ギリギリまで働きたいとも考えたけど、迷惑を考えるとこれ以上は引っ張れない。
 生きてる限りずっと働くのだろうと思っていたから「仕事を辞める」ってピンとこないな。

 とにかく急いで手持ちの仕事を引き継いでいく。

12月16日

 病院の検査はだいぶ落ち着いてきた。
 今日は飼い猫(雨)の去勢日だ。
 妻から送られてきた術後の動画を見ると、元気がない…かわいそう…早く元気になってくれ…!

12月17日

 体重がどんどん落ちてる。
 雨もまだ元気が無いっぽい。
 ようやく落ち着いてきたので改めてベッド周りを整理した。
 うん、だいぶ使いやすくなった。

12月18日

 今日の夕日も綺麗だった。
 16時半ごろ窓から日没が見えるんだけど、オレンジと青のグラデーションが綺麗なんだよな。富士山のシルエットも美しい。マジックアワーだね。
 M-1グランプリからのワールドカップ決勝、と思ったけど途中で寝落ちしちゃった。

12月19日

 雨の調子が戻ってきたっぽい。安心。
 あまりに点滴が多いので、自分でこっそり調整できるように点滴の速度計算を覚えた。

12月22日

 今日は週一のお楽しみSilentの日。
 今日もキュン死しちゃうぜ!

12月23日

 ようやく検査や終活が落ち着いた。
 何となしに、自分の年齢で死んだ著名人を検索してたらフレディーマーキュリーが出てきたので、思い立ってAmazonでボヘミアンラプソディーを観た。
 残り30分は圧巻。
 ボヘミアンラプソディーの歌詞を字幕で追ってたら何故か涙が止まらなかった。
 こんなに泣いたの何年振りだ?
 娘が卒園式のステージで歌うのを見たとき以来か。
 あの時は娘の成長が嬉しくて込み上げた。
 今は、手に入らないものが多いことを知った悔しさと寂しさだろうか。
 そう、俺だって本当は何も失いたくない。

 Twitterでたまに見かける、知り合いの知り合いだった子が自殺した。
 死にたいと願った若者と、生きることに執着するこの病院の老人、そしてその間にいる俺。

12月24日

 快晴。クリスマスイブ感は全くない。
 今日は病院食でローストチキンとケーキが出ると聞いていたのに、届けられたのは鯖の塩焼きと青菜の土佐和え。
「…………」
 思考停止から復帰したあと、よくよく調べてみると、自分の食事メニューが「アレルギー専用献立」だったことが判明。
 確かに入院時、イクラが食べられないことを栄養士に伝えていた。
 でも、病院食で普通は生のイクラを出さないだろ?
 おそらく病院のルール通りにアレルギー献立として振り分けられ、今日に至ったらしい。
 病室では他の人が何を食べているかわからないから、全く気づかなかった……。
 というわけで、病院のケーキは食べ損ねたとさ。

12月25日

 快晴。ずっと快晴。晴れが多いのは東京の好きなところ。
 今日は午前中に呪術廻戦劇場版を観た。
 同室のおじいちゃん、放射線治療の1セット目だけど、ずっと吐いてるし、酸素マスク外せないし、意識が朦朧としている。これだけ過酷な治療に耐えているんだから完治してほしいと心から願う。
 あれ?やばい、俺も発熱してきた。

12月26日

 40度越えの熱が続く。でも喉痛や咳、鼻水も出ないから不思議な感覚。
 検査、検査、検査。
 大量に血を抜かれ、何度も注射針を刺され、失敗され、イライラがピーク。
 とにかく眠い。

12月27日

 ほとんど寝てた。

12月28日

 3日間続いた熱がようやく下がった。
 今日の看護師は慌てん坊の新人で、3回採血を失敗された。
 まだ眠い。

 熱が出た日から徐々に紫斑(じんましんのようなブツブツ)が出てきて、今日は身体中が紫斑だらけだ。草間彌生みたいになってる。

12月29日

 発熱で寝つけなかったせいか、日中とても眠い。
 せっかくの個室だからApple musicでVaundyをかけてリズムに乗りながら過ごしていたら気分が上がってきたぜ。全身が草間彌生みたいになったって気にしない。
 鎌倉殿の総集編を観た。こういうの観ながら年末を過ごすのって子供の時以来だな。
 権力争いの悲しさをこんなに分かりやすく表現できてるドラマって他にないよね?
 あ、白い巨塔か。

12月30日

 妻からもらった手のひらサイズの鏡餅を飾ってみた。
 夜中と早朝に点滴交換で起こされるのが辛い。
 今日は娘が友達とディズニーランドへ遊びに行った。
 LINEで「これから〇〇に乗る!」なんて楽しそうな報告が届くとほっこりする。
 こっちまで楽しい気分になるよ。

12月31日

 午前中は点滴、検査、入浴、輸血でバタバタ。
 昼からはYouTubeで街録chを観て他人の人生に思いを馳せる。外から見えている姿と、これまで歩んできた歴史のギャップがすごい人ほど魅力的だよね。

 嫁が郵便物を持ってきてくれた中に、古巣の会社からの色紙があった。
 お見舞いとしてくれたものだ。
 そういえば昔よく色紙をもらってたな。
 と思った瞬間、思い出した。
 今自分が感じている、死に向かうこの感覚を過去に経験している気がしたんだけど、これだ。
 「転校」だ。
 俺は小学生から中学生にかけて5回転校して、5回友人達に見送られた経験がある。
 学校のみんなに別れを伝えて、仲良い友達とはまだ会いながら、いずれ来る引越しの日を待っている時の感覚。
 あの時の、終わりが見えているからこそ日常がいつもより色づく感じ。
 別に転校なんてしたくないけど、どうにもならない状況と折り合いをつけ、友達と別れの日をカウントダウンして寂しく思う感じ。
 今まで住んでいた、何気ない場所それぞれに思い出があることに気付く感じ。
 いつもよりずっと音楽が心に沁み込んでいく感じ。
 転校してから再び会えることなんてまず無かったから、今思うと全てが今生の別れだった。
 あの時の感覚だ。
 そうか。こんな風に思うってことは、もう自分の中では旅立つ気持ちの準備ができているんだな。

 そんなことを思った大晦日。

1月 日常に非日常が紛れ込む

1月1日

 2023年が始まった。自分の人生でおそらく最後の年だ。
 体調はすこぶる良い。
 昨晩は久しぶりにぐっすり眠れたおかげで、体は軽く頭もスッキリしている。

1月2日

 以前から観ようと思っていた長編アニメを見始めた。
 やっぱり面白いね銀河英雄伝説。
 身体中の紫斑が薄くなってきて、気分も上々。

1月3日

 日没の時間が少しずつ遅くなってきた。
 病室の西日が強烈なおかげで、太陽の位置や日没時間を気にするようになった。
 入院生活も気づけば3週間。そろそろ結果を出したいところ。

1月4日

 午前中は仕事。まだあるんだよな。やれやれ。
 午後は輸血。輸血の前にアレルギーを防ぐ前投薬というのを点滴で入れるんだけど、この薬が眠くなるんだ。
 体がバキバキだからマッサージを受けたい。
 退院の時期が見えてきたら急にいろんな欲が出てきたな。
 焼肉、ラーメン、ピザ、酒、酒、酒……。

1月5日

 あまり気分の良くない夢を見た。夢の中の自分は執着心が強かったな。やっぱり捨てきれないもんだね。

1月6日

 もし想定よりも長めに生きられたら何しようかな。仕事は辞めちゃったしな。
 とか言って今日もまだ仕事の残作業してたな。暇で死にそう、なんて日はいつ来るんだろう?

1月7日

 やっぱりモノづくりは楽しいね。
 飽きるまでは文章を綴って過ごそうかな。
 そういえば先月、なりたかった自分を10個挙げてみたけど、4番目に小説家があった。
 物語を書いてみようか。完成しなくても、まあ、過程が楽しいのよ。
 ちなみになりたかった1番目はイケメンな。モテたい人生でした……。

1月8日

 今いる病棟は癌で入院している人が多いので、多くが放射線治療や抗がん剤治療を受けている。
 そのためか、そこかしこの病室から呻き声や嘔吐する音が聞こえる。
 医療は人の体を治すのか、壊すのか、劣化版を作るのか。
 おそらくどれも当たっているんだろう。
 ただ、何を信じて何を選択するにしても、自分の意思がちゃんと反映されていて欲しい。

 とりあえず短編小説のテーマと設定を作ってる。久々に産みの苦しみと楽しみだー。

1月9日

 もう少しで退院予定の1ヶ月だが、検査結果が思わしくなく、入院延長を主治医から告げられた。
 その夜、4時間ほど発熱した。
 すでに熱が下がっているにも関わらず真夜中に叩き起こされ、新型コロナの抗体検査とインフルエンザの検査、両腕からの採血、午前1時からの点滴が始まった。
 いや、熱下がってるんだけど意味あんの?
 この先も熱が出れば同じことをされるんだ。やれやれ。
 今は治す治療をやってるわけではない。延命治療だ。病院にいる時間を長くしても意味ないんだが?
 早く退院したい。

1月10日

 知り合いの映画監督に似顔絵を描いてもらった!
 彼の世界観に転生したみたいで気分上がるわー!
 次回作が楽しみだけど、2024年2月予定だからキツめなー。
 似顔絵用に渡した写真素材は先月撮った遺影だったがそれは内緒(笑)。

1月11日

 この手記をfacebookで告知してみた。
 告知するタイミングは正直迷った。
 もう少しギリギリになってからで良いかなとも思ったけど、どうせなら元気なうちにみんなと絡みたかった。
 ありがたいことに懐かしい人達からたくさん連絡をもらえたし、それぞれ優しさに満ちたやり取りもでき、このタイミングで良かった。
 退院後にチャンスがあれば何人かと直接会いたいなとも思う。これを読んだ後だったりすると、なんだか俺がいつも深刻なことを考えてるように思えるかもだけど、日々思ってることの99%は「あー、早く酒飲みてえー」だからね。そんなもんです。
 もう禁酒31日目だよ、全く。

1月12日

 ついに!退院が!決定!明後日!
 長かったよ……。

1月13日

 Xデーは突然来た。
 この病棟でコロナ陽性者が複数出てしまい、明日の退院だったのが今日へ変更になったのだ。
 抗がん剤投与と元々の症状のため、免疫力が極度に落ちている今の体にコロナ感染は命取りになる。
 もしこれで死んでしまったらきっと死因をコロナ感染にされ、ニュースで死者数+1されるだろう。それは非常に不本意だ。(俺はコロナ禍におけるマスコミの対応に否定的な意見を持っている)死ぬならニュースと関係ないところで勝手に死にたい。
 しかも陽性になってしまうと、退院時期が大幅に後ろへずれるのは明白だ。というわけで、病院にいるよりも自宅の方がまだマシという主治医と俺の判断で、逃げるように退院が決まった。
 入院から32日目だった。

 久しぶりの外だ。
 今日は気温15度でとても暖かい日らしいが、俺にはよく分からなかった。
 足元がふわふわする。
 頭がぼーっとしている。
 迎えに来てくれた妻がいろいろ話をしてくれるけど、どうしても上の空だ。
 目に見える景色や音が忙しない。情報を処理しきれない。
 人は1ヶ月も入院すると、いろんな感覚が鈍化するらしい。

 家に戻ってきた。
 あまり実感が湧かない。
 猫には警戒されている。
 こいつ、俺の顔を忘れてるよな絶対。

 妻が作ってくれた大量のラーメンを食べ、徐々に感覚が戻る。
(計算された病院食にはあり得ないほど、妻は作りすぎる傾向にある。味は美味しい)

 少し外出もしてみた。
 退院して意外に嬉しかったこと。
 好きな服を着て外に出られること。入院中は基本パジャマみたいな格好だしね。
 世界に戻ってきた実感が湧く。

 その日の夜は、久しぶりの家族団欒だった。ご飯を食べて、ビールを少し飲んで、なぜかUNOやらトランプやらして、夜中にはこっそり猫を触りまくった(当然煙たがられた)。
 ようやく帰ってきた。

1月23日

 退院後に早速インフルエンザにかかり、外界の洗礼を浴びた。
 退院したその日に娘がインフルエンザを発症し、すぐさま近くのホテルへ移動して隔離生活を開始したものの、時すでに遅く、検査でインフル陽性が確認された。
 結局自宅には1泊だけしたあとホテルで5日間滞在し、なかなか家で落ち着けることはなかった。まあ入院生活よりはマシだけど。
 幸いにもインフルの症状は軽かったが、それでも倦怠感、微熱、感冒症状が続いた。ホテルで廃人生活をしていたので、サマータイムレンダを25話一気に観た以外の記憶は特にない。
 今は症状もだいぶ落ち着き、自宅に戻ってこれたのでようやく日記を書く気になった。
 相変わらず猫との心理的距離感は遠い。たまに来るこのおっさん何なん?ってなってるんだろうなあ。

このおっさん何なん?

1月29日

 もう入院前とほとんど変わらない調子で過ごせている。
 すると不思議なもので、ほとんど「死」を意識することが無くなる。
 現金なもんだね。
 死がぼやけてくるのは人間の本能かな。
 だから急にふと思い出すと、梯子を外されたような気分になる。
 いつものように過ごし、笑い、楽しいことに没頭していると急に背中を押され、谷底につき落とされるような感覚。
 つまり日常ってこと。

1月30日

 体調がすこぶる良い。
 これなら2月からは積極的に外出もできそうだ。

 娘から勧められた本を読んだ。
 『世界からボクが消えたなら』
 まるで自分の物語だった。この本を娘はどんな気持ちで俺に勧めたんだろう?

1月31日

 今日で1月も終わりか。
 あまりにも普通過ぎて緊張感が無くなってきたので、ここで自身の病状についてまとめておく。
 ・一言で表すなら現状維持。この状態を目指していたので目標は達成したことになる。
 ・血小板は放っておくとどんどん減るため、週2回輸血する。
  (輸血しても健常者の6分の1しかないため止血しづらい。)
 ・赤血球も徐々に減るので、週1回輸血する。
  (中等度の貧血症が続くので残念ながら激しい運動はできない。)
 ・白血球は薬の効果により保たれている。
  (薬の効き目が無くなり、進行すると感染症のリスクが高まる。)

 健康な血液を自身で産み出す力はもう無いので頻繁に輸血するんだけど、もはや自分の血より他人の血の方が多くないか?
 献血してくれた人たちに全力で感謝。

 次に死のイメージ。
 白血病は徐々に衰弱するというよりも、突然病状が悪化するものらしい。
 ①感染症(白血球が少ないので)→肺炎とか→死亡
 ②内臓の大量出血(血小板が少ないので)→出血死
 ②の方が苦しまずに済むらしい。①も鎮痛薬やモルヒネで緩和は可能。

 何にしても、できれば苦しまない方が嬉しいなあ。
 さて、2月からはやりたいことをやるよ!

2月 ぼやけた死と共に生きる

2月3日

 退院してからは、寝たい時間に寝て、起きたい時間に起き、アニメ一気見とか小説読んだりとか、ダラーーーっと過ごした。こんなに穏やかな日々は大人になってから初めてかも知れん。
 まあでも2週間ぐらいで飽きるよな。そろそろ生活正そうっと。

 今日は在宅医療の相談員さんが来た。在宅医療と通院を併用することになるので、その顔合わせみたいなやつ。介護みたいなフェーズが自分にあるのか分からんけど、なるべく家族の負担は軽くしたいところ。あと痛いのはいや。(これ大事)

2月11日

 夫婦で福岡の旅に行ってきた!
 二人とも初福岡だからはしゃいじゃったなあ。楽しかった!
 計画したのが入院前だったから、途中何度も諦めかけたけどキャンセルしなくて良かった。
 次はどこに行こうかな!

2月14日

 血液検査で白血病細胞の増加が確認された。
 病気がまた一歩進んだらしい。
 抗がん剤を2錠から3錠に増やす。
 これで抑えられなかったら打つ手は無いからあとは進行が早いだろう。

2月15日

 日常を過ごす中でどこか油断してた。
 この日常がしばらく続くのかとたかを括っていた。
 また死ぬ覚悟をするのか。
 この覚悟を何度も繰り返すんだろうな。
 割としんどい。

2月18日

 正しい努力=正しい方法×反復練習。
 何を目指すでもいいけど、これ意識して行動できてるときが一番充実してるなあ。
 やっぱ結果より経過に興味があるタイプなんよね。

2月19日

 岡田斗司夫のコンテンツが好きすぎてニコニコプレミアムに入会してしまった。
 あれだけサブスク解約したのにまた増えてきた。

2月20日

 確定申告やってたのにいつの間にか書類の片付けしてた。

2月21日

 病院で輸血&血液検査。薬を増量したことで一旦抑えこめたらしい。
 まあこれもいつまで持つかわからんけど。

2月24日

 赤血球足りなくて重度の貧血症だから全く運動できないんだけど、朝にウォーキングしてみた!
 うっすら汗かいたら気持ち良かったよ!

2月25日

 今日は雨(猫)のバースデー!
 お祝い極上ツナを振る舞った。
 おめでとう!なんか太ったな!

2月28日

 今日で2月も終わり。
 行きたい場所にも行けたし、会いたい人たちにも全員じゃ無いけど結構会えた。
 病気のことを突っ込んで話した人もいるし、いつもと変わらず、いつも通りな感じで楽しく語れた人もいた。
 でもみんな笑顔で迎えてくれたのは最高だったな。
 周りに優しい人しか居ないじゃん!

3月 覚悟を繰り返す

3月3日

 何日か前からチェックしてたGUのbeautiful peopleコラボの服を買ってきたよ!
 これだけ買って1万円台とかGUさんすご過ぎでしょ!
 気分上がった!
 まさか春服を買える日が来ようとはな(しみじみ)

3月4日

 通院の日。
 病気が進行していた。薬を増量して一旦抑え込んだが、それも長く続かなかった。
 これ以上薬の増量はできないので、もう打つ手は無くなった。
 いよいよその時が来たかって感じ。
 これまで普通に動けていた2ヶ月半、このために入院したわけだけど、まあ無駄じゃ無かったよね。
 願わくばもう少し長いとありがたかったけど。
 そんなこと言っても仕方ないけど、もう少し生きたかったな。人ってつくづく欲深い。
 終わりのカウントダウンが再び始まった。

3月5日

 嫁とデート。
 BLUE GIANTを観てそのあと飲み。北海道ではお馴染みの焼鳥屋が吉祥寺にあると知って、懐かしい感じで酒を飲んだ。客が北海道民だらけでみんな気持ちは一緒なんだと思った。
 たまに豚串食べたくなるよね?北海道出身の皆さん!

3月6日

 今日は夫婦そろって弁護士へ相談。
 俺が死んだあとの手続きとか諸々打ち合わせ。会社を持ってるから色々めんどい。

3月11日

 ここ2日ひどい下痢に襲われていた。こんなん生まれて初めて。お腹の調子も悪いし鼻水は止まらんし(ついに花粉症?)体調6割が続く。

3月13日

 高額療養費の申請を進める。
 今飲んでいる薬は1錠6,400円。それを毎日3錠飲むから1日19,200円かかる。毎月576,000円。それプラス月12本の輸血で大体50〜60万円(輸血は種類が多くて正確にはわからなかった)。
 でもとりあえず毎月100万円以上かけて生かされている。(自己負担額じゃなくて全額ね)
 前はほとんど病気なんてしなかったから、高い健康保険料を払うのが嫌で堪らなかったが、今となっては大変助かってます。20歳からずっと払ってた分は取り戻したのかな?

3月15日

 友人とディズニーシーへ行った。
 お目当てのタワー・オブ・テラーアンリミテッドに乗って、酒飲んで、またタワテラに並ぶ、を繰り返した。
 今回は一泊で帰りの心配をしなくて良かったから二人でワイン3本空けたよ!
 やりたい放題で楽しかったわー。

3月18日

 通院の日。
 今日は主治医と妻を交えて今後の話し合い。
 予定通り病気は進行中。
 ミラクルは無し。
 主治医の話ではあと1〜4週間ぐらいで倒れる可能性が高いらしい。
 なので、倒れたときとその後動けなくなったときのことを三者で打ち合わせた。
 まあ動けなくなってから死ぬまでは早いんだろうな。そういう病気だから。
 だから動けなくなった時点で半分死ぬんだと思う。

 1週間前から左目の奥が痛くて3日前からいよいよひどくなった。
 何人かの医者に相談したが、結局持病があるからなんでもそのせいにされてしまう。
 実際そうかもしれんけど。
 結局原因がわからずにロキソニン飲みまくって凌いでる。

3月19日

 嫁と朝カラオケした帰りに川沿いを散歩しながら帰った。
 暖かくて、桜も少し咲いていて春を感じながらのんびり歩いた。
 途中でカフェに寄ってカレー食べて、二人でそれぞれ好きな漫画を読みながらまったり過ごした。
 これを幸せって言うんだぜ!!

3月20日

 この状況で何が気になるって、読みかけの漫画の最終回でしょ。
 途中で止まってた東京リベンジャーズを最後まで読み切った。すっきり!

3月21日

 左目が痛い。痛い痛い痛い痛いよう。

 左目が激痛→頭痛もひどい→痛み止めをたくさん飲む(2時間しか持たない)→胃が荒れる→胃痛と原因不明の下痢。
 結果、左目激痛+頭痛+胃痛+下痢の4コンボ。
 対処療法の悪い例。これ死ぬまで続くんかな。気が遠くなる。

3月22日

 100日で死ぬと思ったけど気づけば120日ぐらい生きてる!
 タイトルに偽りありだけどまあいいよね。
 左目の激痛は薬に頼らず精神力でなんとかしようとする。4コンボから抜け出せ!

3月24日

 左目の激痛は頭痛だと気づき、でも原因不明のままだ。
 カロナールを浴びるほど飲み、いろんな医者が処方するいくつかの痛み止めを飲む。
 薬と相性の悪い酒が飲めないので別の意味で苦痛。いつまで続くんかな……。

3月25日

 よく行く飲み屋のイベントで100万年ぶりにスーツ+ネクタイを着た!
 いろんな人に似合うと言われウハウハです。
 お世辞でも嬉しいやね。
 でも酒が飲めないので早々に離脱……。
 つまらん!つまらんのだよ!!

3月28日(以下、2023/4/1更新)

 ここ二日間は過去一で頭痛がひどい。
 いやむしろ目の奥の直接的な痛みが強くなった印象。

 さっきシャワーを浴びていたらゾッとした。
 瞑っていた目を開けると左目だけ視界が半分になっていた。
 右半分は部分月食のように黒い霧のようなもので覆われている。

 痛みで寝れない。
 カロナールを飲んでも効くときと全く効かないときがある。
 限界量を超えてカロナールを飲んだので胃がムカムカする。
 こんなのが2週間ずっと続いているから流石にきつい。
 痛みが出ている時は脂汗流しながら我慢し、痛みがおさまっている時は疲れて寝る。
 俺は生きてると言えるのか?

3月29日

 つらい。
 ポジティブな言葉が全く出てこない。
 これが続くぐらいなら早く死んで楽にさせてくれ。

 このままじゃだめだ。
 ダークサイドまっしぐらだ。
 ピリつく痛みの頭で考えた。

 そして、俺を2ヶ月間生かしてくれた抗がん剤に別れを告げた。
 こいつの増量による副作用が原因なのではという仮説に賭けたのだ。
 そもそも治療ではなく延命のための薬なので、痛みを伴う延命は俺が希望していた形と違んだから、俺にとっては合理的な判断だ。

 医者の言うような原因不明じゃ頑張れないから、何か頑張る理由が欲しかった。
 「体内に残留した抗がん剤を抜く」ためなら頑張れる。

3月31日

 抗がん剤を止め、大量に飲んでたカロナールを止め、ひたすら痛みに耐えた。
 ウィダーインしか受け付けない胃に少しずつお粥を流し込んだ。(結局吐いたが)
 でも俺が今やっているのは先の見えない我慢じゃない。
 検証作業だ。仕事で散々やって得意だろ?

4月 最後の日常

4月1日

 頭痛+左目の痛みは少しずつ軽くなってきた!(気がする)
 抗がん剤の副作用で束になって抜けていた髪の毛も今日は少ない!
 いいぞ!

 今日は通院日だった。
 本日のコースは、
 採血検査→抗アレルギー薬点滴→血小板輸血→胃痛薬点滴→鎮痛剤点滴→赤血球輸血→栄養剤点滴
 のフルコースでございます。

 朝から夕方まで嫌になるメニューだったが、嫁が終始そばに居てくれたので何とか耐えられた。
 今頃はシン・仮面ライダーを観てたはずだったんだけどな。

 今日は!焼肉を!4切れも!食べることができたよ!
 復活の日も近い。
 あ、復活はちょっと違うか。症状の進行を食い止めていた抗がん剤を止めたから、病気自体は爆速で進行中だ。
 本当に〝最後の日常〟が始まったのだ。
 そしてこの日常はあっという間に終わる。

4月2日

 認識が甘かった。
 身体は想像以上のスピードで壊れている。
 背中全体が軋むように痛い。
 両方の白目が内出血して視界が狭い。
 歯茎の神経がおかしくなって急に固いものや弾力のあるものが噛めなくなった。
 下唇にずっと痺れがある。
 赤血球不足や視野のゆがみでめまいがひどい。
 もう10分も連続で歩き続けられないし階段も昇り降りが厳しい。
 全身の痛みで夜寝られてないからずっと眠い。


後書き

 隣に死があっても日常は変わらず過ぎていく。
 ただ少し違う未来のことを考えるとき「ヨイショ」という小さな決意が必要なことだ。
 ニュースで見る、ウクライナで戦火にさらされている兵士や市民もきっと近い感覚なんだろう。
 未来や先のことを考えたい、でも、それが本当に訪れるのかは分からない。そこには「未来が本当に存在することを信じる」という決意がいつも必要だ。
 例えば今の俺は来シーズンの服を買いたいと思ったとき、一瞬だけ躊躇する。
 自分には不要なものではないか?と頭によぎる。
 ここで「いや、自分には遠い未来だってあるはず!」と気持ちを奮い立たせて購入ボタンをクリックすることもできるし、「いや、余計な物や気持ちを残すな。自分にはあと2ヶ月だけ時間があると決めよう。それ以上はおまけだから、この2ヶ月を精一杯過ごそう」と決めることもできる。
 いずれも間違ってはいないし、やはり決意が必要だ。
 このような小さな決意を試される場面は意外と多い。
 そしてその度に自分の死を意識する。
 「死に直面しながら生きている」のだ。
 死はいつも隣にいる。戦地にいる兵士のように。

 しかし死は日常に緊張感をもたらすだけではない。
 死の存在は灰色の日々に色彩をもたらしてくれる魔法の眼なのだ。
 それまで俺は死に直面するとき、きっと特別な何かを求め、残り少ない時間を有効活用すべくありったけの好き勝手を詰め込むんだろうと思っていた。
 だけど現実は違った。
 俺はどこまでも普段通りの日々を過ごした。パーっと豪遊したりしないし、世界一周の計画もしない。もちろん世間に爪痕を残そうと良からぬ犯罪を企てたりもしない。YouTubeを20分観続けた挙句、つまんなかったなとぼやいたりする。どこまでも普段通りだ。
 なぜそうなのか?
 おそらく気づいたのだ。
 「特別」は日常にあることを。

 スピッツを聴きながら流れ星を見て昔を思い出したあの日。
 ボヘミアンラプソディーを観て泣いたあの日。
 病室から見える夕日の富士山が綺麗だったあの日。

 これは自分から求めた特別ではない。偶然向こうからやってきたものだ。
 だけどこれまでの自分は、この特別に気づけただろうか?
 きっと難しかっただろうと思う。
 死が隣にあることで残り少ない時間の価値が高まり、いつも見ていた何気ない景色のトーンが一段と鮮明になる。
 見ていたつもりだったものが、実は一部に過ぎないと気づき、より全体を感じられるような感覚。
 わざわざ世界遺産に行って絶景を見なくても、映画みたいな美しく儚い恋をしなくても、絵に描いたような成功者になれなくても、俺の目の前にはすでに素晴らしいものが十分に揃っていた。
 ただ鈍感で気づけなかった。
 ただ目が曇って見えなかった。
 そんな日常という果てない繰り返しの中に潜んでいる「特別」を探し当てる眼を、俺の頭の片隅にいる死は与えてくれた。
 だから別に特別な何かをしなくてもいいんだよ。
 目の前の出来事を存分に感じて、楽しめばいい。
 こんなことに気づけるのが「幸せ」って言うんじゃないかな。

 Mrs. GREEN APPLEの『Soranji』という曲にこんな一節がある。

 この世が終わるその日に
 明日の予定を立てよう
 そうやって生きて
 生きてみよう。

 こんな風にいつもの日々を過ごして、明日もいつも通りだなあ、なんて思いながら最後の日を迎えられたなら最高な人生だと思う。


最後に

 俺がこんなふうに自由に生き、そして自由に死ねるのはまぎれもなく妻のおかげだ。
 妻とは付き合い始めから数えるともう21年一緒に過ごしている。俺の人生で一番長い時間を共に過ごした人だ。
 妻と一緒になってから俺は6つの事業を立ち上げ、4つ潰し、2つはそこそこ稼いで、10回引越した。
 こんなに好き勝手な人生を歩む奴もなかなかいないだろう。
 幸運にも妻にはこの状況を楽しんでくれる柔軟さがあり、我慢強さがあり、俺のことを大事に想ってくれた。
 対して俺が妻の気持ちを汲んで、力になってあげられたかというと相当に疑問だけど、同じく大事に想っていたことは自信を持って言える。
 妻のおかげで俺の人生は彩り豊かになったし、愛する娘や猫に囲まれた楽しい家庭も築けた。
 これ以上何を望むことがある?
 娘の成長をこれ以上見られないのが心残りだけど、欲張ればキリがないよね。ここまでも充分楽しませてもらった。

 娘の成長だって、あの漫画の続きだって、友人達と交わした約束だって、全て見届けられるなんて綺麗な終わり方はないのだから。
 だからこそ、もうこの一言に尽きる。

 「ここまでたくさん楽しめたのはみんなのおかげだよ!本当にありがとう!」


おまけ 死ぬための準備

ここでは日記に書ききれなかった「死のリアル」について触れてみたい。
 何が正解かは分からないし、こうして書いている自分もまだ文章を打てるぐらいにはまだ死から距離がある。
 それでも準備だから、今わかる範囲で決めなければならない。
 決めるのは以下の2つだ。
 1、死んだ後のこと
 2、死ぬまでの介護フェーズのこと
 
 1は、自分が死んだ後に、残った人を困らせないことだ。
 死んだ後に銀行口座は凍結されるので、世帯主が死んだら残された人はいろんな手続きに追われる。
 口座が復活したって、訳のわかららんサブスクで毎月引かれてるけど、何なんこれ?ログイン情報わからん!ってなるしね。
 この辺はエンディングノート本を読めば大体書いてある。
 基本的にはやることリストだからそんなに問題は無いはず。

 問題は2の、自分が死ぬまでにどれだけ残る人に〝迷惑をかけるか〟だ。
 病死の場合、多くは即死できる訳じゃない。
 だんだん体の機能が壊れ始め、動きづらくなり、やがて寝たきりになる。
 俺自身も今書いている時点ではすでにいくつかの機能が壊れ、動きたくても動きづらい状態まで進んでいる。

(以上4月1日記載)


ご報告

4月5日

 牧野は息を引き取りました。

 モノを整理していく中でたくさんのご友人やお仕事仲間に囲まれ素敵な人生を送ってきたのだなと知り、心が温まる想いを何度もしております。

 覚悟はしていたのですが、いざいなくなってしまうと虚無感に襲われてしまうこと数知れず。ただ牧野が懇願してお家に来てくれた猫のお世話で日常に戻り、まんまと作戦にハマって寂しさは半減しております。

(いつも私の変な言葉尻を指摘していたので、この文章を見て〝相変わらずひどいな〟と笑っていることでしょう。)

 人間は思っている以上に強くて生きる力があると実感させられました。
 血液が蝕まれても最期の最期まで牧野は折れず生ききりました。

「オレ がんばったよね」
「うん じゅうぶんがんばったよ」

 牧野を生前支えてくださったご友人・お仕事仲間の皆様
たくさんお世話になりましたこと、亡き牧野に代わりまして厚く御礼申し上げます。

牧野妻

(逝去の報告はこの日記を更新するようにと牧野から言われていたのですが、デジタル音痴の私は更新の仕方に手こずり時間が経ってしまいました。ご報告が遅くなりましたことお詫び申し上げます。)


 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?