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失われていく物と消えない想いを訪ねて

脚本家、金城哲夫の書斎に続く階段が無くなったと聞き、この目で確かめようと見に行ってきました。たまたま職場が南風原町にあるので、1月のポカポカ陽気の元、つらつらと自転車を漕いで行ってきました。

哲夫さんの書斎は、金城家の家業である「松風苑」の庭に建つ離れの二階。外からは急な階段が付いていて、一階の部屋を通らずに直接出入りできる様になっている。

円谷プロを辞め、東京を離れ、戻ってきた沖縄で、新たな野望を展開するべく用意された「秘密基地」とも言える書斎。僕の妄想の中で、哲夫さんは時に新しく思いついた企画にウキウキしながら階段を駆け上がったり、時に絶望の中で重い足を引きずりながら一歩一歩踏みしめたり…そんな階段だ。もちろん哲夫さんの最後を目撃したのもこの階段だった…。金城哲夫の晩年の物語で、重要な位置を占めるあの階段が無くなるのは、ちょっとした事件であった。

松風苑に到着して、離れの見える位置に立っても、あの階段はちょうど死角で様子がわからない。かといってお昼時の店舗に顔を出すのもちょっと憚られる。しかたなく、位置を変えてみようと松風苑の反対側に回ると、唐突にタオルのハチマキを撒いた作業服のオッサンと遭遇。よく見ると哲夫さんの実弟の和夫さんだった。聞けば池のろ過フィルターを洗浄中とのこと。支配人自ら汚れ仕事とは、さすが家業だ。なんかそんな出会いだけでもほっこりする。

金城哲夫の書斎は現在では資料館として、予約を受けた人に公開しているのだけど、訪ねていくといつも和夫さんが仕事の手を止めて対応してくれる。資料館は私設の資料館で入場は無料。金城家の人々による哲夫ファンに対する感謝の想いでなりたっている。なんかもう、いつもいつも申し訳ない気分と、その暖かな家族の雰囲気に浸って甘えたくなってしまい不思議な魅力に僕は惹かれているのです。

思い返せば、哲夫さんの書斎に僕が初めて訪れたのは1994年ごろか…。あのころはまだ、哲夫さんの死後、ほとんど手が付けられておらず、資料や脚本が積み上げられたまま。いわゆる時間が停まったような場所でした。それから十年以上経過して訪ねて見たら、部屋はこざっぱりと整理され、手書きの原稿などはショーケースに収められ資料館に変わっていたわけです。その変化もある意味強烈なショックがありました。

正直に言うと、あの時間が停まったような部屋のままで、いつまでも残しておいて欲しかったという気分があったわけです。でも和夫さんに連れられて、あの資料館を覗いた時、明るく風通しのよくなった部屋の心地良さは今も時おり思い出すくらい心地の良い空間になっていました。

思い過ごしもあるでしょうが、あの資料だらけの部屋は哲夫さんの鬱屈した想いもまた閉じこめていたように思います。あと哲夫さんを失った家族の困惑も。それに変わって今の爽やかな資料館は、いつも笑顔だったと言う哲夫さんの良かった時のイメージが重なります。そして「秘密基地」の中でおもしろいことを考えようとする子供みたいに目を輝かせていたであろう姿を夢想するのです。それはおそらく、ご家族の気持ちの整理とも重なっているのかも知れません。

閑話休題…、ま、そんなわけで鉢合わせした和夫さんに、例の階段の噂を聞いてみました。和夫さんはそんなこともあったねって感じで「あ~敷地を一部更地にしなきゃいけなくて、階段の向きを変えなきゃいけなくなったんだよね」とシンプルな答えを返してくれました。特に新しい情報はないのですが、和夫さんの口から聞けて、僕はストンと納得したのでしょう。根掘り葉掘りと野暮な質問をする気もなくなり、この話は終わります。まあ一抹の寂しさを抱えながらも、みんなが前を向いて生きているならそれで良いのかとモヤモヤした思いは消えてしまったのでした。

と、一段落した後に、僕から金城家にご報告をさせていただくことになります。それはここ一年以上関わっている金城哲夫監督作品『吉屋チルー物語』の字幕作業が遂に終り、2月中にお披露目をすることが決定したってこと。『吉屋チルー物語』の日本語字幕は、これまでもいくつかありました。しかし今回は沖縄県立博物館美術館の依頼で、きちんと方言監修も入れて決定版を目ざしたもの。僕個人としては、哲夫さんがやり残した仕事を進めるためのお手伝いでもあります。これについて語ると長くなるので、次回の記事で書かせていただくということで、一旦筆を置かせていただきます。


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