MUSTとCANの世界

なんだか息苦しい。生きていくのがしんどい。頑張るってなに?今日という1日を過ごすだけでなんだか疲れ切っている。なんでこんなことになってしまったんだろう。

コロナがこの世界を席巻してはや2年。ぼくが今考えていることをつらつらと書いていく。上記のような気持ちを抱えている人に、何かヒントになればと願いながら。

コロナにより分断された社会

コロナによって社会が分断された、あるいはこれまで見えづらかった社会の分断がコロナにより可視化されたのかもしれない。コロナ禍を通じて、ぼくらは「MUST」の世界に生きているんだなぁと再確認した。いつだったか誰かに「いやいや、そんなことはなくて『CAN』の世界だよ。」と指摘されたこともある。だが、やはりこの世界は「MUST」もしくは「MUSTと要求する人」が多すぎる。「〇〇しなければならない」世界で生きていくのって本当にしんどいし、大変なことだと思う。と同時に本当につまらないことでもあるとも感じる。

ステイホームを要求する政府や自治体、出社を要求する会社。休講する学校、出社を要求する会社。在宅OKと言いながら職場のように静謐な環境を要求する。配られない補助金、営業時間は短縮。明日を生きていくことすら精一杯な人。パソコンやスマホがなく、家では社会から隔離されてしまう人。最近は減っているみたいだけど、感染した人を引っ越しまで追い込む日本の村社会。

「普通」であることを「MUST」のように求められる世の中。「あるべき姿」を語らせ、その枠に留まるように要求する教育システム。書いているだけでも辛く、苦しくなるような現実が、ぼくらの前には存在している。

人と比べるということ

ぼくは以前、今自分が抱いている感情を口に出したり、文字に起こしたりすると、何かが違っている気がして、なんだか自分が嘘を言っているように思ってしまい、なかなか本音で語ることができなかった。

そんな感情を持ち始めた当初は、そんな自分を見透かされるのが嫌で、人と話をするときにはなるべく毒にも薬にもならないようなことを、文章を書くときにも、どうでもいいようなことを、勿体ぶった他人に分かりにくいような表現をあえて用いて書いていた。

社会から見た「普通」であることを求められているような気がして、ぼくが思う面白いことや興味があることが他の人と違うことに対する畏怖羞恥心が勝り、自分の思いを口に出すのが怖くなっていた。

僕に見えていたものが世界の「普通」であると勘違いしてしまっていた。

「人はその周りの5人の平均値だ」

という言葉がある。アメリカの起業家で、億万長者となったジム・ローン氏が残した言葉だ。立場や考え方、趣味、思考、年収等、社会的なステータスが近い人は集まりやすく、その影響を大きく受ける。公立保育所、小学校、中学校、高校と進んだぼくは、良くも悪くも「普通」の人生を送っていたのだろう。いつしかそれが自分を縛る見えない枷となり、その枠を外れることが怖かった。人と比べることで自分を評価していた。

人生を変えた浪人生活

ぼくがそんないわゆる「普通」からはみ出したのは、大学受験で不合格となり、浪人生活を始めたときだと思う。当時ぼくが通っていた高校は大学進学率99%、残りの1%は公務員になるといういわゆる地方進学校だった。

第一志望に不合格となったぼくはその大学以外は行きたいと思っていなかったので、両親とも相談し、すでに浪人を決めていたが、先生は国公立大学への合格者数しか見ておらず、合格可能性の高かった中期日程、後期日程の大学も受験するように強要した。むしろ出願自体もするつもりがなかったが、まだ先生の言うことには従うべきだという「普通」でありたかったぼくは、言われるがままに出願していた。

合格した。でも、ぼくにとっては行きたい大学ではなかった。同時に言われるがままに「普通」に学校生活を送り、「普通」に勉強して、「普通」に受験したのに、不合格となったぼくは、なんだかこれまでの人生を否定されたように感じた。

先生たちは「せっかく合格したのだから後期試験で受かった大学に行くべきだ」というスタンスを崩さなかった。少なくとも過去5年間、ぼくが通っていた高校から浪人した人はいなかった。自分のやりたいことを抑えてまで、言われるがままの道を進むことに対する強い違和感を覚えた。

両親に「将来絶対返すから」と約束し、浪人生活を始めた。

ぼくは99%の大学生でもなく、1%の公務員でもなく、その他にカテゴライズされた。

予備校の寮に入り、勉強漬けの日々を送る中で、同じ大学を目指す多くの仲間と出会った。周りにいる「普通」の人が変わった。浪人してよかった、「普通」から抜け出してよかった。そんな気持ちを強くした。

余談だが、1年の浪人生活を経たぼくは無事に第一志望に合格した。その結果を伝え聞いた後輩たちの中にも、それまで「普通」ではなかった浪人を選択する子が増えたそうだ。

自分で自分を縛ることをやめた

大学に入ってからは、自分がやりたかった国際問題の研究を始め、いろいろな分野の授業を受けた。サークルも模擬国連と呼ばれるインカレのサークルに入り、全国大会の運営や、関西事務局長の大役も任された。この辺りから徐々に自分の人生が変わっていった。

これ以降、無理に「普通」であろうとすることをやめた。自分で自分の限界を決め、自分の可能性を縛ることをやめた。自分のやりたいことをやりたいときにやりたいようにやる、それで何が悪い、と思うようになった。

大学で出会った友達は、現在世界各地で活躍している。昨今のウクライナ情勢に、国連職員として対応に当たっている友達がいる。政治の世界に入った友達もいる。社会で「創られた」「普通」に則って、「普通」に生きていたぼくにとっては、こうした社会を「創る」側の人と友達でいられるなんて思っていなかった。大学のOBOG会で

「ぼくらには世界を変えていく責任がある。なぜならその能力があるから」

と言った先輩がいる。

「このOBOG会で、この先の世界をどうしていくかを話し合いたい」

といった友達がいる。この先輩や友達にとっては、そうした話をするのが「普通」なのだ。

一方で、こうした社会を「創る」人と、「そうでない」人との間の分断も大きくなっている気がしている。社会的に高いポジションにいる人たちはその人たちだけで議論し、そうでない人たちのことを顧みようとしない。

大学入試でのAO入試や推薦入試での入学者が2020年の実績で45%を超えている。今後は60%超までその比率が高まることが予測されている。

「自分をアピールする」経験

なんて一度もしたことがなかった。今のメンタルのまま当時に戻れるのであれば、少々突飛なこともできるとは思うが、以前のぼくのようにいわゆる「普通」であることに逆らわない人にとっては、きついハードルである気がする。

突飛なことをして上手くいかなかったらずっと親や家族含め馬鹿にされ続けるような風潮がある地方出身者にとっては、より辛く、生きづらい世の中になっていくのではないだろうか。それを「自己責任」で片付けてしまう今の社会にも大きな違和感を覚えている。今の社会は大きく分断されている。それに気づかない、もしくは気付いても気づかないふりをする、「マイノリティだから」とか「自己責任」とか言う言葉で片付ける。

恵まれていることは悪いことではない

フィールドリサーチで訪れた東ティモールでの2週間の経験、駐在以降のメキシコでの生活は、日本のいわゆる「普通」の水準がかなり高いことをぼくに教えてくれた。

最近「〇〇ガチャ」という言葉が流行っている。上記で色々と書いたが、国ガチャなるものがあるならば、日本に生まれた我々はSSRを引いているようなものだとは思う。恵まれていることが悪いわけではない。恵まれていないことが悪いわけでもない。全部が自己責任なんてこともあるわけない。

東ティモールは当時独立から約10年、まだまだ治安も安定していなかった。護衛されながら移動したことは今も忘れられない。無法地帯化まではしていないが、経済状況への不満は各地で燻っており、ギリギリでバランスを保っているような状態だった。インフラも十分に整備されているとは言い難く、自然災害のリスクも大きい。

メキシコはG20にも加入しているので、いわゆる先進国の一員ではあるが、街中にホームレスも多くいるし、信号待ちをしているとチップ目当てで車の窓を掃除しに来たり、いろんなものを売りに来る。1つ5ペソとか10ペソとか、日本円で言うと28円とか56円とか、売れてもそのレベルの稼ぎにしかならないものを、炎天下で延々と延々と売っている。

昨年コロナ禍で貧困率がさらに悪化し、44%まで高まったそうだ。ここで言う貧困とは1日あたり2ドル以下で生活する人のことである。1ドル110円として1日220円、1ヶ月6,600円で人口の半分が生活している。一方で2021年の世界長者番付16位で総資産が6.85兆円もあるカルロス・スリム氏もメキシコ人である。そんな現実がここにはある。

https://jp.reuters.com/article/mexico-poverty-idJPKBN2F7012

https://memorva.jp/ranking/forbes/forbes_world_billionaires.php

これが全て自己責任だろうか。ぼくにはそうは思えない。

世の中の「普通」であろうとすることが「CAN」であってほしい

結局何が言いたいのかはまだはっきりとは自分でもわかっていない。まだ思考の海を漂っていて、自分なりの結論にも辿り着けていない。ただ、ぼくの生き方が他の誰かにとって「普通」ではないことは自覚している。そしてそれが誰が「普通」であろうとすることから抜け出すきっかけになればいいのではないかとも思っている。

もちろん「普通」に生きていきたいという人も多いだろうし、それを否定するつもりはない。でも、社会がこれだけ分断されてしまい、「普通」に生きていくことに息苦しさを感じる世の中は大嫌いだ。一歩踏み出す勇気、「普通」であることをやめることを「MUST」のように世の中が求めているような気がしている。

「普通」であることが「CAN」である世の中であってほしい。

生まれや育ちに関わらず挑戦できる環境を整えること、その挑戦がうまくいかなかったとしても揶揄することなく、最低限の生活が送れるセーフティネットが整備された「CAN」で溢れる世の中であってほしいと願っている。

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