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アニメを見ていたら気づいた人間関係の構築法

脳内での想像と外で起きた現実の境目。
その境目は自分が思っていたより遥かに曖昧で不確かなものなのではないか。

そう考え始めたのは何の気なしにアニメを見ていた時に経験した一つの不思議な出来事からだった。

シーズン2に入ると話が深くなり登場人物も増えてきたため、話を整理するためにも、もう一度、1話から丁寧に見直すことにした。

すると、2回目にあるシーンを見たときに、自分が1回目に見た(と思っていた)画が消えていた。
「あれ、このシーンの後にこういう画があったよな」と思い、幾度か同じシーンを見返してみたが、何度見ても自分が見たはずの画は出てこない。

このアニメを教えてくれた知人に話しても、そんな画はなかったと言う。

自分の中ではあまりにも鮮明で、まるでアニメの一部だと思っていたその画は、単なる自分の頭の中で思い描いた、話の流れをわかりやすくするために勝手に付け足していた補助の画だった。

今まで一度もそんな経験をしたことがなかったから、驚いた。

結構、本当に、驚いた。

自分が現実だと思っていたことが、勝手に自分が想像していたものだったなんて。現実と想像がこんなに綺麗に混ざり合ってしまうなんて。

そしてこれは、この出来事が過去一くらいに自分にとって衝撃的すぎて、いろんな思考を巡らせて、気づいたお話。

元々、過去の思い出の記憶は人と比べて少ない方で(それを気づいたのも最近の話だが)、学生時代の友人と思い出話をしても、「そんなことあったっけ」と思うことが多い。
みんなで集まり、"懐かしい話"をする度に自分だけ置いてけぼりで、自分のメモリがいかに小さいかを実感させられる。

そういう昔話をする中でもたまに、自分の記憶と他者の記憶に食い違いが起きることがある。
誰がこう発言した、これがあってこうなった、などの細かい事実が、人によって異なるという現象が起きる。

今までは、単純に自分の記憶力が弱いだけだなと思い、勝手に相手の言っていることに記憶の修正をして、また引き出しに戻していた。

でもこれって実は、どちらかの記憶力が劣っているとか、どちらかが嘘をついているとかいう訳ではなく、その事実が起きた時点で、それぞれの脳が自分なりにその出来事を捉え、解釈し、自分の脳の引き出しにしまった、ということではないか。

要するに、客観的な出来事や事実をありのままで捉えられる人などもはや存在せず、全ての人が脳内にメモリとして残す時に少なからず自分なりの解釈のフィルターを一旦通す。

その人にとっては、それが真実であり、事実と多少異なっていようと、本人の記憶や経験として残るのは、真実の方であろう。

それに気づいた時に、急に自分が経験してきた(と思っている)ことや、過去の記憶というものが不確かで遠い存在になった気がした。

自分が想像していたより、外の世界と内の自己に距離があると同時に、自分の中ではその現実と想像の区別はつけられないのではないかと思い始めた。

となると、対人関係なんてもっとややこしい。
今までは現実の世界を2人で共有しているとばかり思っていたが、実は、自分、現実、相手の3つの世界が存在していて、その3つの世界は相容れないくらいかけ離れていると思った方がいいかもしれない。

それに気づいた時、私は別にそれに悲観的になる訳ではなく、寧ろ肩の荷が降りて気楽になった。

話が噛み合わないとか、価値観が合わないなんて当たり前で、同じ言語を使っていたとしても、一つ一つの言葉の捉え方や、その人にとっての価値が違う人間と始めから分かり合えるはずがない。

出会った瞬間から気が合うと感じる人は、偶然世界の見方が似ていた人だから、大事にしていることが似ていて共有しやすいはずなので、絶対に手放さないほうがいいが、大抵の人は、時間をじっくりかけて、言語や視点を擦り合わせていく作業が必要になる。

自分とは違う、と言って突き放すのはいとも簡単なことだが、違うのが当たり前の世界で、手を取り合って生きていくには、相手の現実世界との距離感を学び、自分の現実世界との距離感をわかってもらうのが大事かもしれない。

結果的に相手の現実世界との距離感に賛同する必要は全くない。
けれど、それを理解しようとする姿勢を持っているだけで、新しい世界を発見できたり、見えていなかった自分の深層心理に気づけたりもするから、なかなか興味深い。
仲良くならないと、とか、この人を理解してあげないと、とか、気負わず、気楽に言語や視点を擦り合わせていく作業を楽しめれば、人間関係の構築も、そう難しいことではないんじゃないかなと思えてくる。


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