身の回りの物事をどのくらい「疑え」ば、ちょうどいいか?

疑うことは大事である。疑わなければいつどこで騙されるか分からない。こうしたスタンスは、もやは生活上の常識的な態度になりつつある。ただし無限の疑いを要求するこのようなスタンスは、とてもじゃないけど際限がない。マスメディアは嘘ばっかりで情報の一つひとつに疑いの目を向けねばならないし、我々が口にする食料もすべて疑わしい、病院だってどんなヤブ医者が診察しているか分からない(以下無限につづく)。

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以下の警告リストを考えてみてほしい。自分が飲む水は不断に監視しよう。どこの水であっても汚染されている可能性があるから。沸騰した水を安全だとは思わないでほしい。とくに、プラスティックの容器に注がれた場合には。家では浄化してほしい。ほとんどの公共水道は汚染されているから。p.277

『Risk Society: Context of British Politics』アンソニーギデンズ著

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アンソニー・ギデンズは、現代社会の特徴のひとつを、このような警告リストを不断に意識しつづける「リスク社会」と定義づけている。つねに選択がもたらすリスクを不断に意識しつづけ、それに対処する手段を持つことを義務づけるような規範が渦巻く世の中、それが今の社会である。「水」ひとつとってみても、疑うべき『警告リスト』は延々とつづいていく。

我々は、食品の添加物を調べてそれがどのような人体的影響かを考慮し、信頼できる病院の評判を調べながらセカンドオピニオン・サードオピニオンを得て、情報源となるメディアは複数のソースに当たねばならない。

ある一方では、それは「無根拠に盲信されていた伝統」からの離脱であり、喜ばしいことでもある。我々は科学的態度とフラットな合理性という武器を手に入れて、世の中を疑うということを覚えた。それがもたらしたここ数世紀の社会変革は凄まじい。

しかしもう一方では、「疑い疲れ」も起こっている。どこまで疑えばいいか判然としないし、極論をいえば、すべてが疑わしい。我々は「信頼」することによって、世界の複雑性を考えないようにしてきたのに、その「信頼」を手放すということは、世界のありとあらゆる複雑性を、(これまで社会全体で制度的に処理してきた複雑性を)個人がすべて処理することになる。これは不可能だ。

このようにして、世界の複雑性をすべて判断・処理できる「ひとつのものさし」が要請される。すなわち極端な陰謀論や原理的宗教だ。ただし、これはこれで散々危険性が露呈されている。とくに1990年代〜2000年代は、原理的宗教の危険性がとくに噴出した時代だった。

結局、個人でなんとかするしかない。そういう時代である。


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