見出し画像

茗荷谷の歴史小話(新井白石とシドッチ)

 東京都文京区は小日向(こひなた)台(だい)、小石川台、白山台、本郷台、関口台といった5つの台地とその間の小さな谷から成り立っている。このうち、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷は 「茗荷(みょうが)谷(だに)」と呼ばれていた。江戸時代の初期にはすでにミョウガが多く作られていたらしい。
 
 ミョウガ(茗荷、蘘荷、学名:Zingiber mioga)はショウガ科ショウガ目の宿根性の多年草。東アジアが原産に中国や韓国にもみられるが、ミョウガの英名はJapanese Gingerあり、食用で栽培されているのは日本だけとされる。現在の新宿区牛込(うしごめ)地区は茗荷の生産地で「牛込の茗荷は勝れて大きく美味」と謳われていた。赤みが美しく大振りで晩生(おくて)のみょうがである。(ウイキペディアから)

ミョウガ(ウイキペディアから)

 茗荷谷のある地下鉄丸ノ内線が計画された当時、最初の駅名候補は「清水谷駅」であった。しかし、地域住民や拓殖大学から、歴史ある「茗荷谷駅」への変更を求める陳情で、ついにこの駅名になったのだった。東京駅からは6駅13分、池袋駅にも2駅5分と便利なこの辺りは文京区でも屈指の人気地域でもある。お屋敷町でもあり路地は狭いが、瀟洒な高級住宅が立ち並んでいる。周辺には学校が多いことでも知られており、筑波大学と付属高校、お茶の水女子大学と付属高校、拓殖大学、跡見学園女子大学などがひしめいており、さらには中央大学の法学部が八王子から移転してきた。緑豊か都内屈指の文教地区なのである。
 
 茗荷谷駅から南へ徒歩8分のところに、かつて「切支丹(きりしたん)屋敷」があった。江戸初期の島原の乱ののち、大目付であった井上政重は宗門改(しゅうもんあらため)役に任じられると、正保3年(1646年)捕縛したキリシタンを自身の下屋敷内に作らせた施設に収容し尋問を行った。これが切支丹屋敷の始まりで、寛政4年(1792年)まで続いた。現在は小さな石碑が残るばかりである。ここで、今から300年前の1709年(宝永6年)、宣教師と幕府要人との出会いがあった。

切支丹屋敷跡(ウイキペディアから)

 宣教師は、イタリア人のジョバンニ・バティスタ・シドッチ(1668~1714)、前年に日本への潜入を志んだが屋久島で捕らえられて江戸へ護送されてきた。これを尋問・取り調べたのが旗本・朱子学者でもある新井白石である。一介の旗本に過ぎなかったが、徳川家宣(とくがわいえのぶ)が6代将軍に就任すると、側用人・間部詮房(まなべあきふさ)とともに幕政を実質的に主導した。のちに正徳(しょうとく)の治と呼ばれる時代を牽引してゆくことになる。シドッチはたどたどしい日本語で、白石はオランダ語を解したとも言われるが、身振り手振りのコミュニケーションだったのであろう。

新井白石(ウイキペディアから)
復顔されたシドッチ(国立科学博物館から)

 この時、白石52歳、シドッチは41歳だった。危険を承知ではるばるやってきたシドッチだったが、その人格と学識に白石は感銘を受けた。東京国立博物館にある「親指のマリア」は彼が所持していたものである。潜入するにあたって、このマリア像を肌身離さず持ってきたところにシドッチの深い信仰を垣間見ることができる。苦労人の白石には特に感じるところがあったに違いない。
 
 白石は彼の本国送還を具申したが、結局は幕府は幽閉策を採ったのであった。シドッチは布教しない条件で、比較的良い待遇で軟禁されることになった。しかし、彼はこれを破り、監視役の長助・はる夫婦に洗礼を授けたことにより、地下牢に移されて1714年(正徳4年)ここで衰弱して殉教した。2014年7月に現地の発掘調査で3体の人骨が出土し、その1体がDNA鑑定の結果、シドッチと推定された。

 彼の最期は一見悲惨なようにも見える。だが、日本に何とか潜入でき、白石との交流を通して日本を見聞し、たった2人ではあったが入信させたことで、彼も本望だったのではあるまいか。シドッチと白石、2人の交流に思いをはせながら茗荷谷駅に戻ると、そこは帰宅途中の多くの学生で溢れてかえっていた。(以上)