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薩摩の豪商は維新の原動力だった!(指宿紀行)

 今回は、幕末に活躍した薩摩藩を、経済的に支えた指宿の豪商のお話です。最後までどうぞお付き合い下さい。

【目次】
1.九州最南端の街・指宿
2.薩摩の豪商、浜崎太平次

1.九州最南端の街・指宿(いぶすき)

 指宿市は鹿児島市から南へ50km、薩摩半島の南端に位置する観光都市である。南国ムードたっぷりで、かつては新婚旅行のメッカだった。その後、新婚客は遠のいたが、今度は温泉地として売り出すことになる。

 古くは「湯豊宿(ゆほすき)」ともよばれ、文字通り市内のいたる所から湧出する泉源は1,000か所を越える九州屈指の温泉都市でもある。名物の砂むし温泉は世界的にも珍しい。

 入浴の仕方は脱衣室で専用の浴衣に着替え、指定された砂の上に仰向けになり、約50~55度の砂をシャベルでかけられる。

砂蒸し温泉(ウイキペディアから)

 凡そ12~13分もすると、全身から汗が吹き出て、砂から出るとさっぱりとして、気分爽快になる。この後は砂を落として、温泉に入ってリラックスとなる。

 この効果としては、寝ているため血液が心臓に還流しやすく、55度前後の高温の砂により体が温められ、血管が拡張されて心機能が高まることが挙げられる。

 筆者の感想としては、かけられた砂が案外重かったことと、背中やお尻が熱いと感じたが、入浴後の爽快感がなかなか心地よかった。

 指宿市の中央部には、大昔の火山活動によってできた九州最大の湖・池田湖がある。周囲15km、水深233mの湖で、薩摩富士と呼ばれる開聞岳(かいもんだけ)を望み、体長2m、胴回り50㎝の大ウナギが生息すると言われる。

鰻池(指宿観光協会から)

 この東側の山中に位置するのが、周囲4.2kmの神秘的な湖、鰻池(うなぎいけ)だ。これも火山活動によってできたもので、ほとりにある鰻温泉は指宿温泉郷のなかで唯一の単純硫黄泉で皮膚病に効果があるとされている。

 昔ながらの湯治の風情が漂い、幕末維新の三傑・西郷隆盛が愛したゆかりの地として知られる。温泉好きだった西郷は指宿をしばしば訪れ、鰻温泉には13匹の犬を連れていって、1か月の湯治をしたと言う。

 平成23年3月、鹿児島中央駅-指宿駅の間を1時間で結ぶ観光特急『指宿のたまて箱』号が運行をはじめた。

 列車名はご当地の竜宮伝説にちなんだもので、現地では略して「いぶたま」と呼ばれている。ドアが開くと玉手箱の煙をイメージしたミストが吹きだす演出になっている。

特急「指宿のたまて箱」号(ウイキペディアから)

 車両は海側が白、山側が黒の特徴的な外観で、内装も木をふんだんに使って海に面したカウンター席を設けるなど旅心満載である。

 鹿児島中央駅から指宿駅を錦江湾沿いに1日3往復設定されており、途中の錦江湾(きんこうわん)の眺めが素晴らしい。

 2.薩摩の豪商、浜崎太平次
 明治維新の原動力となった薩摩藩はその資金源をどこに求めたのだろうか。その答えが指宿にある。指宿港の一帯は幕末「豪商・浜崎太平次(はまさきたへいじ)」の本拠地だった。

浜崎太平次像(指宿市)

 1817(文化4)年、に作られた長者番付によると、東の横綱・三井八郎右衛門(みついはちろうえもん)に対して、西の横綱は浜崎太左衛門(たざえもん)だった。

 太左衛門は指宿を根拠地に活躍した豪商で、その孫が今回の主役・8代目浜崎太平次である。

 彼は文化11年(1814年)、浜崎家の長男として生まれ、先代の時に傾きかけた家業を見事に立て直した。その最盛期には多くの大型船を持ち、中国・安南・ジャワまでも遠征していた。

 国内では那覇・長崎・大坂・新潟・佐渡・箱館(函館)などに支店を置いて貿易業を営んだ。時には清国へ渡り、そこで調達した物資を諸国へ売りさばいた。

 また蝦夷の特産品の俵物(海産物)や昆布などは中国での需要が旺盛なので、これを琉球を経由して清国へ持ち込んだ。

密貿易を行っていた坊津(ウイキペディアから)

 このような密貿易を薩摩藩は密かに行っていた。当時の薩摩藩の財政は500万両(現在価値で5000億円)を超える借金にまみれて、利息だけでも年間80万両にのぼり、返済は到底不可能で破綻状態にあると言ってよかった。

 この財政改革を担当したのが調所広郷(ずしょひろさと)である。彼は商人を脅して債務を「無利子250年払い」と事実上踏み倒し、砂糖の専売、地場産業の開発などを進め、特に密貿易にも力をいれた。

調所広郷(ウイキペディアから)

 これは「ひと舟ひと倉、ふた舟三倉」と言われるほどの巨利を得た。調所と太平次がどこで出会ったのかは定かではないが、太平次は貿易で得た資金を惜しみなく薩摩のために使った。

 幕末から明治維新へと向かう薩摩藩を財政面で支えたのである。篤姫(あつひめ)の輿入れや新式の銃の購入なども、太平次が助成したと言われている。

 密貿易だから、危険も多い。取引を行う屋敷には屋根裏の隠し部屋など、忍者屋敷のような構造になっていた。

 坊津(ぼうのつ)の密貿易屋敷はほとんど無くなってしまったが、石畳の道は当時、商人達が行きかっていたのであろう。航海から帰った男たちの楽しみは指宿の湯だった。

 ずっと風呂には入れなかった彼らには最高の幸せだったに違いない。「山木(やまき)どんの馬ん湯(うまんゆ)」呼ばれていた大きな湯舟だったようである。

 山木は浜崎の屋号で、石垣を積んだ湯壺の直径が数十mもあり温水プールの様なものだったらしい。

 一方、主人の太平次は摺が浜の砂むし湯を愛していた。馬ん湯につかる男たちは大声で山木の歌を歌ったという。

    ♪表山木はダテにはださぬ 港みなとの目じるしよ
    ♪男山木は自慢じゃないが  海の度胸の唐船がよい
    ♪波の南蛮ほんのり明けりゃ  薩摩山木の晴れすがた

 太平次の名前はあまり知られておらず、密貿易ゆえに歴史の表舞台には登場しない。しかし、太平次の活躍が無ければ幕末に薩摩藩は主役を演じられなかったのではなかろうか。

 薩摩藩に大いに寄与した太平次だったが、明治維新を見ることはなかった。1863(文久3)年6月15日、大坂で50歳の若さで客死したのである。

 若すぎる死であった。明治維新までわずか5年のことだった。(了)

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