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筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった!

1.  はじめに
   大阪と京都の県境、八幡市の丘陵地に「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」がある。峠といっても標高はわずかに59mにすぎないが、京を遠望し河内平野を望む交通の要衝である。その昔、京都から高野山に向かう東高野街道が通り、現在は国道1号線が近くをかすめている。今から400年前、本能寺で信長を討った明智光秀と、毛利攻めから急ぎ戻った羽柴秀吉が天下を賭けて戦った山崎から淀川を挟んだ対岸に位置する。双方からの誘いを受けた大和の戦国大名、筒井順慶(つついじゅんけい)はここで日和見をしたと言われ、これが「洞ヶ峠」、「洞ヶ峠を決め込む」といった格言になったという。何とも不名誉な逸話であるが、実はこれは史実でない。洞ヶ峠に陣取ったのは順慶ではなく光秀で、ここで彼を参陣を待ったと考えられている。
 

筒井順慶像

   優柔不断な「日和見順慶」というイメージだけが定着してしまい、泉下のご本人にとっては誠に不本意な結果になってしまったのである。それでも2020年NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では駿河太郎さんが光秀と鉄砲を巡って駆引きを展開する智将を好演し、吉田鋼太郎さん演じる豪快なライバル松永久秀と好対照をなしていた。今回はわずか36歳でその生涯を閉じた彼に焦点をあてて、従来のイメージに左右されることなく名誉挽回を図るとともに、その本当の姿を明らかにしてみたいと思う。 

駿河さん演じる順慶              吉田さん演じる久秀

2.  順慶の生涯
  それでは順慶の生涯をざっと辿って行くことにしよう。彼は天文18(1549)年3月3日、大和の戦国大名筒井順昭の長男として生まれた。筒井氏は興福寺一乗院の「衆徒(しゅと:僧兵)で、これを束ねる「官符衆徒(かんぷしゅと)」であった。父の時代にはすでに強大な軍事力を持つ戦国大名となっていたのである。ところが、順昭は病を得て順慶わずか2歳の時に病没してしまった。家臣たちには順慶への忠誠を誓わせるとともに、政務は叔父の順政に託したのだった。この時、彼の死を隠すために奈良の盲目の僧、木阿弥(もくあみ)を影武者に仕立てたのである。順慶の成長後、お役御免となったことが「元の木阿弥」の語源になったとされている。天文21(1552)年、4歳で元服して13代将軍義輝より偏諱(へんき)をうけて藤勝(ふじかつ)と名乗った。のち、藤政、さらには得度(出家)して陽舜房順慶と改名してゆくのである。

   永禄2(1559)年8月、三好長慶の重臣、松永久秀が大和へ侵攻した。この時、久秀は当時としては初老に差し掛かる50歳、戦国きっての梟雄として頭角を表していた。対する順慶はわずかに10歳、孫ほども離れている歳の差だったが、これがこののち19年に及ぶ生涯のライバルとの血みどろの戦いの幕開けだったのである。彼との戦いを次第に有利に進め、信長のもとで長篠の戦など各地に参戦し、大和守護の塙直政が石山本願寺との戦で戦死すると,それの後釜として、ようやく大和の守護に任じられたのである。

   天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起こると順慶は積極的には動かずに大和郡山城に籠城する準備を開始した。明智光秀は教養人同士仲の良かった順慶の加勢を期待して河内との国境の洞ヶ峠に布陣したが、ついにこれには応じなかったのである。10日に秀吉に誓紙を送り届けて恭順を誓ったものの、山崎の戦いには参戦しなかった。15日、京都醍醐で秀吉に拝謁した際、これを激しく叱責されたという。それでも所領は安堵されたのである。この頃から胃痛を訴えることが多くなり、小牧・長久手の戦いに無理して伊勢方面を転戦した。大和郡山城へ帰還したのち、天正12(1584)年8月11日、36歳の若さで病死したのであった。
 

五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう:順慶の墓)


3.  洞ヶ峠の真実
   それでは、順慶の評判を大いに落とした洞ヶ峠について検証していこう。6月2日の朝、彼は京へ向かって出発した。信長の宿泊先の本能寺で合流する手筈だったと思われる。この時、本能寺は明智勢1万3千に囲まれ焼け落ちていたのである。事態を知った順慶は島左近や松倉右近ら重臣を集め評定を開き、6月5日には一部の兵を明智勢に合流させるなど光秀への配慮もみられた。しかし、光秀に味方する大名はあらわれない。姻戚でもある細川藤孝・忠興親子はともに髷を切って喪に服すとの姿勢を示した。これを見た順慶は9日、光秀の要請である河内出兵を延期して、大和郡山城に兵糧を運び入れて籠城の備えを開始したのである。

明智光秀                   羽柴秀吉

   翌10日、光秀は洞ヶ峠に布陣して、重臣で順慶とも親しい藤田伝五郎を使わして加勢を求めたが、これを拒否して同日、秀吉に恭順の誓紙を届けたのであった。光秀の与力で親しい丹後の細川12万石、大和の筒井18万石(直轄領のみ、大和の与力全体では45万石)の協力が得られなかったことは結果的には致命症となった。13日、山崎で羽柴・明智両軍激突したが、兵力で圧倒した秀吉の勝利となったが、順慶はこれには参加しなかったのである。15日、秀吉に拝謁した際に、激しく叱責されたと伝わるが、それでも咎めはなく所領は安堵されたのだった。

    洞ヶ峠に布陣したのは順慶ではなく光秀だったが、両軍に加勢をしなかったのは果たして日和見していたのだろうか。順慶も本能寺の変後の情勢について、細川と同じような感触を持ったと想像される。縁戚でもある細川の領国である丹後は京都からは遠い。これに対して大和は京の隣国である。反明智を表明すれば直ちに蹂躙される恐れすらあった筈である。この辺りを勘案し事態が長引くことを想定して、郡山城に籠城する準備をしたのではなかろうか。山崎の戦いの直前に於いては兵力の差をみて、すでに秀吉の勝利を確信したことだろう。しかし、彼は勝ち馬にはそのまま乗らなかった。一族郎党と大和の民を守るには秀吉に合流するのが良かったはずだ。そうしなかったのは、大和の将来を考えると、秀吉よりも教養人である光秀の方が良いに違いないという思いがあったとも推測される。秀吉に合力しないことが、せめてもの光秀への恩返しだったのではあるまいか。
 
4. 筒井の水の清ければ
   本能寺の変ののち、優れた智将の順慶に残された年月はわずか2年にすぎなかった。新たな天下人の下で戦闘に明け暮れたからである。ストレスと胃痛に悩まされ続けた彼は小牧・長久手の戦いの後、病床についた。この時よんだ辞世の句である。
        根は枯れじ 筒井の水の清ければ 心の杉の葉は浮かぶとも
    (現代語訳)根は枯れることはない、筒井(井戸)の水は清らかだから。                           たとえ、心に過(杉)行く数々の思いがあったとしても。
   水清ければ月宿ると古来言われるように、水が澄んでいれば月が綺麗に映る、すなわち、心に穢れが無ければ神仏の恵みがあると訳される。大和の国と民を守らんとする思いだけで19年もの間、宿敵松永久秀と戦ってきた。続く本能寺の変の混乱では、情に流されず主従関係に捉われることなく自分の信じる道を選択してきた。今後も筒井には様々な困難が行く手に立ち塞がってゆくことだろう。それでも、大和の国と民を守っていこうという清らかな心さえあれば、きっと筒井は絶えることなく続いていくだろう。身も心も憔悴しながらも、死を前にした若干36歳の戦国武将の清々しい覚悟の歌である。そこには大和のために戦い続けこれを死守し、新たな天下人秀吉という圧倒的存在感を前でも逞しく生き抜いた等身大の青年武将の姿が確かにあった。先日、再来年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟』で秀吉の弟、秀長が主人公と発表された。その居城、大和郡山が注目されることにもなるだろうが、そこには筒井順慶の物語があったことも思い出してもらいたいものである。(以上)