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餃子の街に本多正純を想う(家康の名参謀の悲劇とは!)

 栃木県の県庁所在地、宇都宮は北関東の中核都市である。餃子が食文化として定着しており、一人当たりの購入額で浜松や宮崎と競っている。

 この町を整備・発展させたのは徳川家康の名参謀 本多正純(ほんだまさずみ)であった。その後、彼は改易されたため、その功績は歴史の闇(やみ)に埋もれてしまった。

 今回は彼に焦点を当てて、事件の真実を探ってみたい。

【目次】
1.宇都宮城の由来
2.家康の名参謀 本多正純のこと

1.宇都宮城の由来
 築城は藤原宋円が平安のころ、二荒山神社の南に築いたものと言われる。その後、地元の豪族、宇都宮氏の居城として北関東支配の拠点となっていった。

 「宇都宮」は二荒山神社の社号の「宇都宮」に由来するらしい。これを氏の名とした宗円以降、代々宇都宮氏を名乗るようになってゆく。

二荒山神社(ウイキペディアから)

 宇都宮氏は、戦国時代に小田原に勃興した北条氏にも対抗できる勢力に成長していったのである。北条氏は豊臣秀吉と戦って敗れたが、宇都宮氏は恭順して所領を安堵されている。

 しかし、22代宇都宮国綱は1597年、突如改易を言い渡された。理由は検地の際に派遣された浅野長政に石高の不正を訴えられたとされているが、真相はわからない。

 その後の関ヶ原の戦いにおいて、国綱は家康の東軍に組したいと画策したが、旧臣の多くが西軍について結局、家名の再興はならなかったのである。ここに22代、500年にわたって北関東に栄えた名門は、ついに滅亡したのだった。

 1601年、奥平家昌が10万石で入り城下町の整備を開始する。1619年、家康の参謀だった本多正純が小山藩から15万5千石で入ることになる。彼は城下の改修と城の整備を進めた。将軍の日光参詣の際の宿泊所の役割を担ったのであった。宇都宮の土台作りを進めたのが正純にほかならない。
 

復元された清明台櫓(ウイキペディアから)
 

2.家康の名参謀 本多正純のこと
 それでは次に主人公の藩主 本多正純(ほんだまさずみ)の経歴をざっと辿って行くことにしよう。父の正信も家康の名参謀として知られる。彼は三河に生まれ、鷹匠(たかじょう)として徳川家に仕官した。

 1563年(永禄6年)三河一向一揆が勃発すると、正信は一向宗側の参謀として家康と対峙したが、家族を残して出奔している。大久保忠世(おおくぼただよ)のとりなしで32歳のころ帰参した。

 この諸国遍歴が鷹匠としての素質の上に参謀になるべき素養を培ってきたのだろう。広い視野と綿密な戦略構築を身に着けたと思われる。家康と正信は阿吽(あうん)の呼吸で幕府の設立を進めたのである。

父の本多正信(ウイキペディアから)


 そんな正信は最大の功労者だったが、武断派の家臣達からは相当に嫌われていた。本多忠勝や井伊直正などが加増を受ける中で、相模の玉縄1万石に留まった。何度も加増の話はあったものの、辞退し続けたという。

 大坂の陣で徳川の天下を見届けると、22,000石までの加増は受けたという。それでも、決して3万石以上を受けてはならぬと考えていた。もし、辞退しなければ、禍が必ず降りかかるであろう、と遺言していたのである。

 正信の嫡男正純(まさずみ)は1565年(永禄8年)に生まれたが、父が出奔したので大久保忠世のもとに匿われていた模様である。

 父の帰参後、家康に仕え次第に頭角を現した。幕府が開かれると駿府の家康に用いられ、1608年(慶長13年)下野(しもつけ)国小山藩33,000石を拝領した

 家康の死後、二万石を加増されて53,000石となった。しかし、秀忠やその側近衆から次第に疎まれるようになってゆく。1619年(元和5年)小山藩55,000石から宇都宮藩155,000石に一挙に大加増を受けたのだった

2代将軍 秀忠(ウイキペディアから)



 3年後の1622年(元和8年)8月、最上氏57万石改易で山形城接収に派遣された際、突如改易を言い渡された

 世にいう「宇都宮吊り天井事件」(秀忠暗殺未遂事件)はのちの作り話だろうが、福島正則の改易に反対したこと、宇都宮拝領を固辞したこと、拝領後の返上申し立てなどが改易の理由とされる。

 秀忠の姉 加納御前や側近 土居利勝の謀略との説もあるが、真相は不明である。要するに秀忠付きの側近たちとはソリが合わなかったのであろう。秀忠自身も、家康の側近としての彼を煙たく思っていたのかもしれない。

 今も先代社長の時代の幹部が、2代目社長から疎まれるケースは多々あるだろう。初代の創業期を支えた功労者も、後継者にとっては小うるさいご意見番になるわけだ。

 正純の処分は当初、出羽国由利(ゆり)55,000石への転封だったが、彼は潔白を主張してこれを固辞したので秀忠の怒りを買って、わずか1,000石の知行で由利に配流となった。

 久保田藩の佐竹氏ははじめ丁重に扱ったが、のちに幕府の叱責を受けると横手に彼を幽閉する。ともに流された息子の正勝に先立たれた7年後の1637年(寛永14年)4月、13年に及ぶ悲憤の末に横手でその生涯を閉じた。享年73歳だった。

本多正純・正勝の墓(横手市:ウイキペディアから)
 
   

  陽だまりを恋しと思う うめもどき 日陰の赤を見る人もなく
 

うめもどき(葉の形が梅に似ている:ウイキペディアから)


 これは正純が横手で読んだ辞世の句と伝えられる。父正信に比べて、驕慢(きょうまん)で強欲だと悪く評価されることが多い。また、宇都宮への加増が主因のように解釈されているが、もともと本人が辞退していたのである

 ただ、父の正信とも家康の影の部分、特に悪役、汚れ役を一手に引き受けていたと言えるのだろう。正純は潔白を訴えたのだが、そもそも何の咎もないのに、多くの大名を改易に処したのはほかならぬ彼自身だったのだ。

 このような職務だからこそ、忠義を尽くす一方で敵もまた多かったと言えよう。寂しい辞世の句ではあるが、律儀な彼にとっては、ある意味で想定された結果だったのではあるまいか。

宇都宮ライトレール(同社のHPから)

 地元の宇都宮では昨年8月26日、次世代型路面電車(LRT:ライト・レール・トランジット)が国内で初めて全線新設された。専用レールを行くので定時性・利便性が高く、国内各地で導入を検討している。

 人口減により交通網の維持に悩む地方都市の着目を浴びていたが、予想よりも好調に推移しているという。今後、持続可能なコンパクトな街づくりや地方再生に大いに貢献するだろう。

 この宇都宮の基盤を作ったのはほかならぬ正純だった。すっかり忘れ去られた感もあるが、今一度彼に光を当てて、ぜひその功績にも着目してもらいたいものである。(了)

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