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第二話:ヤクルト
しのぶが自身の祖母である、ぶっこちゃんと同居を始めたのは一年前のことである。それまでぶっこちゃんは、しのぶの父であり自身の息子である清一と二人暮らしだった。しのぶの母はと言えば、しのぶが幼少の頃家を出たきり存ぜぬ人となり、しのぶ自身はこの、今は我が家のアイドル九十歳のぶっこちゃんに育てられて大きくなった。
ほんの数年前まで、このぶっこちゃんも「物忘れが増えたわ、ボケてきたかも」と話題にできるくらいには正常であったのだが、丁度一年前、息子の清一が他界して以降、認知症状が一気に加速した。
清一は膵臓がんだった。頼りにしていた息子の急死で、二人暮らしの時ですら寂しいと言っていたぶっこちゃんが心配だからと、結婚間もない新居から一時帰宅して始まったぶっこちゃんとの同居が未だ続いている状況である。
その日は午前十時頃、もそもそと何かが近付く気配がしてキッチンの引き戸が開いた。
「ぶっこちゃんおはよう」
「おはよう。」
ぶっこちゃんと呼び始めてからレスポンスが良好である。相変わらずもこもこの緑色の毛糸のセーターやら涼しい色のストールやらで覆われた体を、壁をつたって移動させる。足元にふわふわのパンダのスリッパを、ちゃんと履いているのを確認してしのぶはほくそ笑んだ。昨晩ベッド脇にそっと置いておいたスリッパだ。
ぶっこちゃんはおもむろに冷蔵庫を開ける。これはもうぶっこちゃんの一番の趣味と言って良い程に習慣化された行動で、特に何か欲しいわけでもなく自動化されたルーチンであった。そうしたぶっこちゃんの行動にしのぶはいちいち注意しない。電気代やらエコやら最初のうちは気になって注意したが、一向に直るわけでなく、本人がやめようとする気配も見られないため、自身の思考を修正したわけだ。つまり、冷蔵庫を開けて中をしばらく覗く行為はぶっこちゃんにとっての快楽であり、趣味なのだと。そう変換したならば、歳を重ねて出来ないことが増えていく中、ほんの些細な娯楽なのだから注意するのは可愛そうではないか。趣味にはお金がかかるもの、電気代くらいしれている。そして、思考を転換してみたらしのぶ自身が楽になったことに気付いた。
ピピピ ピピピ ピピピ
冷蔵庫の電子音に驚いてビクッと体を震わせて離れたぶっこちゃんだが、その手にはちゃっかりヤクルトが握られていた。
以前冷蔵庫を開けることを注意したせいか、はたまたこっそりヤクルトを取ったことが後ろめたいのか、ぶっこちゃんはしのぶに隠れるように向こうを向いて立ったまま何やらもそもそしている。しのぶははじめ、私は見ていませんよと表現するようにシンクに向いて作業していたが、何をしているのかと気になって覗き込むと、一生懸命ヤクルトのアルミふたを開けようとしているぶっこちゃんが真剣な表情をしていた。
「これ、かたいわ」
ぶっこちゃんは文句を言う。
ちら、としのぶを見るが開けてほしいとは言わない。
「かたいん?」
しのぶは、少しいたずらな気持ちで質問する。
「これ、ほら、かたいわ」
左手に握ったヤクルトのアルミの上ぶたを右の親指と人差し指で押したり捻ったりしている。アルミは少し破れているようで、そこから中の液体が漏れてきていた。
「やったろか?」
「やって」
しのぶの言葉を待っていたようで、ぶっこちゃんはヤクルトを差し出す。しのぶはシンクの上までヤクルトを持ってきてそろっとアルミを剥がす。その様子を目で追うぶっこちゃん。周囲を布巾で拭ってぶっこちゃんに手渡すと、彼女は口を大きく開けてヤクルトをくわえた。
しのぶが「あ、まずい」と思った次の瞬間、ぶっこちゃんはのけぞって天を仰ぐ。やばい、むせるんじゃないかと思ったが、ぶっこちゃんはそのまま静止している。中のヤクルトの水平線が、少しずつ、下がっていった。一センチくらいヤクルトが減った時、ぶっこちゃんはゆっくりと俯き姿勢になって残ったヤクルトがプラスチック容器に戻された。
心配して凝視していたしのぶを見てぶっこちゃんは言った。
「これ、おいしいわ」
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