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第六話:急須の神様

 しのぶが結婚したのは二年前のことで、流行らない寿退社だなんて言われてそれまでの仕事を辞めて専業主婦となったのは、別段何か理由があるわけではない。理由付けるとすれば夫の稼ぎで充分生活が賄える状況だったからである。仕事に不満があったわけではないし、他にやりたいことがあったわけでもない。しいて言えば、新婚生活やら専業主婦みたいなものを味わってみようかと思い立ったにすぎない。
 実際始めてみると毎日決まった予定がなく自由というのは快適すぎるくらい快適で、思い立って水族館に行ってみたり、夫、幸太の仕事終わりに待ち合わせて新しくできたステーキハウスに行ってみたり、準セレブな生活を満喫していた。
 父清一の病を知ったのはそれから半年を過ぎた頃のことで、その後のことを語る間もなく他界したものだから、考える間もなく実家生活に戻ったしのぶである。
 実家から車で三十分の新築の新居に幸太が一人暮らしする状況となったが、元々料理好きで家事も苦にしない人だけに何一つ問題無く機嫌良く単身生活を受け入れてくれた。その上週末にはしのぶに会いに来てしのぶの実家で過ごし、月曜日になればまた自宅に帰るリズムが日常になってきた。
「幸太、どこも行かれへんでごめんなぁ」
「別にいいよ、美味しいお肉焼いてくれたら。お酒もあるし」
 そうした高級肉や高級酒も買ってきてくれるのは幸太本人だ。世に稀なる良い夫と結婚できたものだと幸福に浸るしのぶである。
「ところで、それなに?」
 幸太が指差す先には急須があった。
「急須?」
「その、口に、紐?」
 ぶっこちゃんが愛用している椿柄の陶器の急須の口に、ビニール紐が括り付けられてあった。
「ああこれ、急須の神様」
「急須の神様?」
「ぶっこちゃんがね、昔からやってるねん。何か失くしものをしたら、こうやって急須の口に紐を括るねん。そうしたら数日の内に見つかるねん」
「へぇー、効くのん?」
「これがすごいねん。これまでに見つからなかったためしない」
 どこで聞いたのか、誰に教わったのか、それはぶっこちゃんの昔からの慣習であった。どうも神様とか言っておきながら、使う紐は何でも良いらしく、今回は単なるビニール紐だし、巻きつけ方の原則も無く適当であり、括り方も団子だったり、蝶だったりするあたりが、ぶっこちゃんの性分を表している。
 と、そこへ、肉の匂いに誘われたのか、寝ぼけ眼のぶっこちゃんがよたよたよ壁づたいに現れる。
「あぁ、来とったん」
 分かった風に話しかけるが恐らくは誰なのか分かってはいまい。
「こんにちはぶっこちゃん」
「こんにちは」
 幸太の挨拶にオウム返しで応えるぶっこちゃん。
「これ、面白いですね」
 幸太は急須を手に取ってぶっこちゃんに話しかける。
「えぇ?」
 いつもの、訳が分かっていない返答があった。
「ぶっこちゃん、今度は何失くしたん?」
 しのぶが横から声をかける。
 暫くの沈黙は、そのセリフと急須を意味付けようと一生懸命に脳をフル回転させているようだった。
 ふいに、ぶっこちゃんが急須から目を逸らし、しのぶを見つめる。
「それを忘れてしもてん」

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