まわたのきもち 第16号
「ルーツから見えてきたもの」
「根源」「祖先」という意味を指す言葉に、『ルーツ(roots)』というものがある。
自分のルーツを知ることは、自分で自分の立ち位置を確認する上でとても重要である。僕は子どもの頃から一貫してそんな考えを持っていて、その考えを土台にして学んできた。
今年のお盆は、自らの故郷に帰省することをせずに、義母の実家のお墓参りのため、函館に赴いた。義両親とパートナーを車に乗せ、札幌から片道約250kmのほとんどを運転することになるであろうことを覚悟してもなお、僕がその役を買って出たのは、パートナーのルーツを知りたいと思ったからだ。
義母の実家は、函館市内のとある集落にある。いわゆる平成の大合併のはるか昔の戦前に、吸収される形で函館市の一部となった地である。集落に唯一あった小中学校は令和の直前まで存続していたが、今は閉校となり酒蔵となっている。学校が閉校となっても、そこで暮らす人々の生活の営みは確かにそこにあり、義母が懐かしそうにその地で話すことの数々は、まさに義母と、その義母を母に持つ僕のパートナーのルーツを探るヒントになった。その地にあるお墓参りは、パートナーの「祖先」を意味するルーツを探るものであるのだが、子ども時代の経験そのものは、義母の人格形成にとても大きな意味をもたらす「人生のルーツ」となっていた。そういう点で言えば、子ども時代に関わる大人は、その子の「人生のルーツ」に関わっているとも言えるのだ。
さて、「人生のルーツ」を形づくるもののひとつとして、「サード・プレイス」というものがある。家庭と、学校や職場とは別にある、心地よい「第三の居場所」のことを指す言葉だ。例えば、カフェや公園、現代で言うとSNSもそれに入るのかもしれない。家庭という血縁や、学校や職場という義務から発生するものではなく、自らの意思によって「そこに居よう(居たい)」と思える居場所のことを指す。
大学院生時代に読んだ本に、アメリカの社会学者ロバート・パットナムが2000年に書いた『Bowling Alone: the Collapse and Revival of American Community』(邦題『孤独なボウリングー米国コミュニティの崩壊と再生』)というものがある。大著であるため内容をまとめるのは難しいのだが、ごくごく簡単にまとめると、アメリカではボウリングコミュニティ(チーム)の数も、それに所属する人も減り、仲間とボウリングを楽しむ人が減っている。一方で、個人でボウリングを楽しむ人は増えており、そこから、人との間の絆を表すソーシャルキャピタル(社会関係資本)が減少していることが読み取れるのではないか、という論を、膨大なデータをもとに検討した本である。
アメリカだけではなく、日本でも、2010年にNHKのドキュメンタリーだったと記憶しているが、「無縁社会」という言葉が生まれ、現代の世相を表す言葉として印象的ではあった。
子どもにとって、サード・プレイスは重要なのは言うまでもない。『ドラえもん』ののび太や、『サザエさん』のカツオにとっての、あの空き地や公園がそれにあたるのだが、実際社会において問題となるのは、子どもたちが選択できるようなサード・プレイスを、大人がどう用意するか、である。
イデアは、厳密にはサード・プレイスの定義には当てはまらない。そこには保護者の意思が介在し、子どもが果たすべき義務も発生するからだ。それでも僕は、イデアを子どもたちにとってのサード・プレイスにしていきたいと思っている。家庭でも、学校でもない居場所。保護者の意思が介在しても、「居たい」と思える居場所にしていくことは、半世紀後に、「人生のルーツ」として義母が語ったあの地のように思える時間と、居場所としての安心感。このイデアという空間を、「学び」をその手段として、今と未来か混在するような、そんな空間にしていきたいと思っている。