_冬_A_犬と子供

子供の頃の友人の死が、私の心の奥深くに蒔いた種

 幼稚園の時からの友達だったY君は、小学校2年生のときに交通事故で亡くなった。彼は生死に関する不可思議なことをいくつか遺していったが、それが私の死生観の形成に大きな影響を与えてきた。

彼は自転車に乗っていて転倒し、バスにひかれて突然に逝ってしまった。

彼と仲のよかった友達は、私を含めて3人いた。私たち3人は、彼のお葬式以降も何かと彼の家に行き、お線香をあげ、彼のお母さんとY君のことを語りあった。

4年ほどの間、毎年の命日には3人連れだって彼の家を訪れた。

子供ながらに律儀な私達を見て、母は「あの子も生きていたら、今頃こんなに大きくなっていたはず」と、いつまでもY君のお母さんに悲しい想いをさせてしまうのでは」と、Y君のお母さんを気遣った。

しかし、子供達がどうしても行きたいというのを止める訳にもいかず、戸惑っていたのを覚えている。

そんな3人だから、Y君に関するお互いの体験やY君のお母さんから聞いた話など、彼の不可思議な行動についてはすべて共有していた。

その結果、私達はみな「Y君は自分がもうじき死ぬことを、ちゃんとわかっていたに違いない」「人は死んでも、生まれ変わるらしい」と思うようになった。

彼が亡くなるまでの数日間にとった不可思議な行動や、彼が遺した絵のことを、周囲の大人は私たちに、

「たまたま、偶然が重なっただけ」「何かの間違い」、あるいはせいぜい「むしが知らせた」と説明した。

大人たちは、子どもたちばかりでなく自分たち自身に対しても、そう納得させ、安心させたかったのだ。

しかし、小学2年生の私達は多感で未知のことへの好奇心も強く、

大人達のようにどこか適当なところに落とし込んでふたをしてしまう、などという芸当ができるはずもなかった。

私たちは、心の深くでいつまでも揺さぶら続けた。

 こうした体験をした私は、その後、「死」や「生まれ変わり」への関心を強め、高校生の頃に「輪廻転生」だとか「カルマ」といった考えを知った。

そして、その考え方を前提に世の中を見ると、それまで疑問に思っていた多くのことが、まがりなりにも説明可能になった。

例えば「この世の中には、なぜY君のように幼くしてこの世を去らねばならない人がいるのか?」、

「善良な人が、あんなに不幸な死に方をする一方で、あんな悪人が、なぜ罰も受けずに、のうのうと生きていられるのか?」とか、

「なぜ天才と呼ばれる人達が存在するのか?」といったことが。

だから、そうした関連の本を読み漁ったし、そうした過去世を見ることができると主張する人達にも、縁あって幾人も出会った。

一時期は、自分の過去世を具体的に知りたくて追い求めた。

そうした経験を経たいま、私は思う。

まず、「転生輪廻は真実であるに違いない」と。

転生輪廻など信じない人達は言うだろう。「そんな非科学的なことを、なぜ信じられるのか?」と。

科学が明らかにしてくれなくたっていい。混沌としたこの人生、この世界を、一つの秩序をもって見せてくれるのだから、それでいい。

Y君の死のことで不可思議な体験をともにした私達3人は、そのあと別々の中学校に進んだこともあって、連絡が途絶えたまま、今に至っている。

だから、あの体験があとの2人の死生観、人生観にどのような影響を与えたのかを知る由もない。

しかし、幼い私達にあれほどの衝撃を与えた体験が、私だけでなく、あとの2人にも大きな影響は与えたに違いない。

Y君は私達3人それぞれの中に、いわば死生観の種を蒔いて逝ったのだ。

その種は長い年月をかけて、私達の経験、成長とともに、それぞれの中で、それぞれの形に成長していったのだ。

                                                                        (Photo by Elena Karneeva)

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