幻の女帝 飯豊皇女とソフィア皇女

 歴史上、女帝が多く生まれた時代がある。日本の古代史とロシアの近世史がそれである。推古天皇、エカチェリーナ二世…。その礎を築いた、歴史に先駆けて生まれた女傑たちの物語。

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ピョートル大帝の姉にして最大のライバル

 腕を組んでこちらを睨みつけてくるド迫力の太った女性…とはレーピンが歴史画に描いた『ソフィア皇女』である。ロマノフ朝のお姫様として生まれた彼女はどういうわけか修道院に幽閉され、窓の外には死体が…。

 イヴァン雷帝の暴走の末、ロシアの大地はリュ―リク朝に終わりを告げた。イヴァン雷帝の息子フョードルが子供を残さないまま亡くなると、ロシアの皇位を巡って有象無象の争いが勃発。何の根拠があって皇帝を名乗っているのかよくわからない皇帝が続く。どの皇帝、ツァーリも長くは続かなかった。

 しまいには血塗られた玉座に誰も近づきたがらなくなる。1613年、ミハイル・ロマノフという貴族の16歳の少年が皇帝に選出される。ロマノフ王朝の始まりである。

 だがいまだロマノフ王朝は不安定だった。もっとも危ぶまれたのは皇位の安定継承。優秀な男子を残すことが絶対だった。

 第二代皇帝アレクセイには、何人かの息子とソフィアという優秀な姫君がいた。アレクセイはソフィアが女であることを残念がったという。最初の妻との間の息子は愚鈍で、そして後妻との間の息子は皇位を継ぐには幼すぎた。

 アレクセイの息子フョードル三世は体が弱く、子どもを残す前に即位後数年で世を去った。その次に皇帝になったのは弟のイヴァン五世とピョートル一世。そう、二人の皇子が共同統治者として同時に皇帝になったのである。ヨーロッパ史には女王の夫が共同統治者の王として即位することが多々見られるが、この時点でカオスである。しかしもっとややこしいことに、二人の姉のソフィア皇女が1682年摂政に就任。実質的な統治者として君臨しはじめたのだ。

 ソフィアとイヴァン、そして先帝フョードルは先々帝アレクセイの前妻の子ども。ピョートルは後妻の子どもだった。それぞれの妃の実家がバックに着き、血で血を洗う権力争いの火ぶたが切って落とされた。のちに大帝と呼ばれるピョートル一世もこのとき十歳。一度は単独の皇帝として即位したものの、フランス人外交官をして「マキャベリを読んだはずがないのに、マキャベリズムそのもの」と言わしめたソフィアの手によって、共同統治者に追いやられてしまう。

 ソフィア自身が即位することを考えなかったのだろうか?この後のロシア史を知っている後世の者ならそう考えてしまう。農民の娘からピョートル一世の妻になり、ロシア初の女帝となったエカチェリーナ一世。ドイツから嫁いで、夫をクーデターで倒し女帝になったエカチェリーナ二世。彼女たちよりも、皇女であるソフィアの方がまだ正当性があると思うのだが…。

 一番の問題は、結婚の問題だったのかもしれない。ソフィアは独身だった。この時代のロシアの皇女は西ヨーロッパの王族には相手にされないし、国内で結婚するには身分が高すぎるしで、修道院に入る人が多かった。のちのロシアの女帝たちは、日本の女帝がそうであるように、愛人との極秘結婚を除いてみな独身か未亡人である。(エカチェリーナ二世の場合は即位してからしばらくして幽閉中だったピョートル三世が死去。)女帝への反感以上に、女帝の夫という存在が受け入れられそうにない。弟たちを殺して皇位に就いたところで、結婚して出産することが難しいなら、いったい次に誰を皇帝にすればいいのか…。

 とにかく彼女は摂政として実権を握ることを選んだ。愛人ゴリツィンと統治に当たったが、クリミア遠征で失敗する。ソフィアとピョートルは何回かのクーデター合戦を繰り広げたが、ついに命を奪うことはお互いにできなかった。1689年、既に結婚し一人前になっていたピョートルは姉を修道院に幽閉。ソフィアはそこからまた反撃を企てたが、成功することはなかった。その企みが明らかになった時、ピョートルは姉を処刑しなかった。そしてそのまま、ソフィアは修道院で生涯を終えるのである。

皇子がいないので臨時天皇に

 続いては古代の日本。雄略天皇という人が、ライバルとなりうる皇子たちを殺してしまったので、一時的に皇位継承者が激減したことがあった。五世紀の話である。

 清寧天皇という、髪も肌も真っ白な皇子(アルビノ説がささやかれる)が雄略天皇の後を継いだのだが、彼はお年頃になってもなぜかまったく妻をめとらなかった。何人も妻を持つのが当たり前の時代なのに…。当然、子どもはいないまま亡くなってしまう。

 朝廷は大混乱に陥る。次の天皇がいない。しかたがないので履中天皇の皇女、飯豊皇女(雄略天皇のいとこ)にご登板いただく。(※履中天皇の皇子で雄略天皇が殺害した市辺押磐皇子の王女とする説もある)

 …?日本初の女帝は推古天皇ではないのか?そう思うのも当然である。飯豊皇女は天皇不在の間天皇の仕事をしたものの、正式に即位しなかった。しかもその治世は一年に満たないまま亡くなってしまう。

 ところで、市辺押磐皇子には億計王と弘計王という息子がいたのだが、二人は父が殺されたのを見て逃げ、高貴な身分を隠して暮らしていた。二人が発見された時、これでお役御免だと飯豊皇女は喜んだのだが、二人がお互いに皇位を譲り合って決まらない。そのため実際には飯豊皇女の治世は数カ月ではなく数年にわたったという説もある。(清寧天皇が生きている間に二王子が見つかっていたという説もある)

 正式な天皇には数えられないものの、今でも宮内庁的には不即位天皇扱いの飯豊皇女。女帝の先駆けであることは確かなようだ。

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