ショートショート「旅の醍醐味」(光文社yomeba!印象に残った作品)
「日本に帰ってきちゃったねえ」
飛行機から降りるや否や、妻が伸びをする。3歳の娘はおれの腕の中ですやすやと眠りこんでいる。
「楽しかったな、イタリア旅行」
結婚5周年記念に思い切って有休をとり、イタリアに出発したのは1週間前。ローマでは現代的な街並みの先に突如現れる古代建築物に度肝を抜かれ、フィレンツェでは美しい街並みを背景にたくさん写真を撮った。
「ゴンドラに乗る夢が叶ってよかったわ」
ヴェネツィアでは妻がずっと憧れていたゴンドラに乗って、船頭さんと一緒に歌いながら景色を楽しんだ。そこで買ったお面は娘のお気に入りで、ホテルの室内でずっとかぶってはしゃぎ回っていた。
「でも、やっぱり……」
「「日本が一番だよねえ」」
おれたちの声がそろう。そう、これが海外旅行の醍醐味のひとつだとおれは思っている。旅先の文化に触れ、観光を楽しみ、たくさんいい思い出はできたけれども、でもやっぱり住むには日本が一番だな、と再認識できた。空港のきれいなトイレでゆっくりウォシュレットを使い、親切なCAさんに日本語で乗換案内をしてもらい、帰りの電車ではスリにびくびくすることなくうたた寝し、そしておれたちは我が家に帰ってきた。
「ああ、やっぱり、家が一番だよねえ」
娘を寝かしつけた妻がソファに倒れこんだ。さっきどこかで聞いたようなセリフだ。部屋着に着替えた妻はお腹をポリポリと掻きながらスマホをいじっている。スウェットの隙間から覗くお腹を見るに、結婚したときと比べてだいぶ太ったようだ。最近はもうおしゃれなデートなんてすることはなくなってしまったが、仕事が忙しいおれの分まで娘の面倒を見てくれる妻には感謝している。ふと気づくと、妻はスマホを握りしめたまま寝息を立てていた。
「おいおい、風邪ひくぞ」
苦笑いしながらブランケットをかけるおれの目に、開きっぱなしのメッセージ画面が飛び込んできた。「やっと日本に帰ってきたよ! 夫は明日から仕事だから、久しぶりにうちにおいでよ!」「やったー! いっぱいイチャイチャしような!」明らかに浮気である。
「おい! このメッセージどういうことだよ!」
おれはカッとなって妻を起こし怒鳴りつけた。状況を把握した妻は一瞬、しまった、という顔つきになったが、すぐに平静を取り戻しこう言った。
「どういうことって、そのままよ。子供の面倒も見ずに仕事、仕事のあなたよりずっと素敵な人なの。悪いけどバレたからには離婚してちょうだい。親権は私がもらうわね」
あっけにとられるおれに馬鹿にしたような目を向け、妻は娘の手を引いて家を出ていく……。
と、ここでシミュレーションは終了。VRゴーグルを外し、おれはひとりごちた。
「やっぱり、独身が一番だよなあ」
おれは未婚でバリバリ働く、いわゆる独身貴族だ。過去には長く付き合った恋人もいたが、結婚したいとは思わなかった。今の世の中、結婚生活にはリスクが多すぎるのだ。それに比べて、自分で稼いだお金を全部自分で使える独身生活は最高だ。さて、明日の会議の準備でもするか、とパソコンを立ち上げたとき、電話が鳴った。「もしもし」何の気なしに出ると、先日健康診断の再検査を受けた病院からだった。できるだけ早く来院してほしいという。嫌な予感がした。
後日、病院を訪れたおれに、医者は気の毒そうな顔を作ってこう言った。
「ステージ4の胃がんです。残念ですが、余命は持って1年程度かと」
冗談だろ? おれは目の前が真っ暗になっていくのを感じた……。
と、ここでシミュレーションは終了。いや、シミュレーションという言い方は適切ではないかもしれない。だって、そもそもこの世界こそが……。
「やっぱり、肉体なんてないのが一番だよなあ」
そう声に出した、つもりではあるが、実際にこの世界の空気を振るわせたわけではない。おれを含め、この仮想世界の人間はみんな脳だけになっているのだ。人類の科学技術の発展は目覚ましかった。遂に物理法則のすべてをプログラミングし、ほとんど地球と同じ仮想世界を構築することに成功したのだ。
もちろん、肉体を手放すことには大反対する人もたくさんいた。人権団体による暴動も多数起こったらしい。ところがある日、テレビに難病の女性が出演し、こう語ったところから世論は動き始める。
「私はもう自殺しようと考えていました。世の中には肉体的な問題を抱えて自殺する人が毎年何千万人もいるでしょう。死を選ぶよりはずっと前向きな選択ではないかしら。皆さん、一足お先に新しい世界でお待ちしています」
彼女の言葉に触発され、世の中に絶望した人々が、一人、また一人と、藁にもすがる思いで仮想世界に移住することを選んだ。実際に脳だけになってみた人々は驚いた。目に映る景色、空気のにおい、食べ物の味、何もかもが肉体を持っていたころと同じなのだ。コミュニケーションにも何も問題はない。実世界で特定の人間に話しかけ、相手がそれを耳で聞いて理解することと、仮想世界に脳が伝えたい情報を発信し、その信号を相手の脳が受信することには、少なくとも主観的には何の違いもなかった。
脳だけの姿になれるのは全人口の3割までという規定があった。人類を種として存続させつつ、人口爆発・食料不足といった社会課題を解決するのにちょうどよいバランスなのだろう。言うまでもなく、ひとたび肉体を捨てた人間は子孫を残すすべを持たないのである。
実世界では選りすぐりの技術者とロボットがこの仮想世界のメンテナンスをしているらしい。本当にロボットはエラーを起こさないのかとか、おれたちの脳が浮いている水槽が地震で割れたりしないのかとか、初めのうちは色々なことが気になって不安な日々を送っていた。でもまあ、おれなんかよりずっと賢い人たちが設計したんだろうし、大丈夫だろう。おれはとっくに考えるのをやめていた。どのみち、ここで生きていられるのもあと少しなのだから。脳の寿命は200年強というが、おれはそろそろ200歳になるのだった。
「アップデートの準備ができました」
そのとき、仮想世界の空に大きな文字が現れた。アップデート? どうやら、脳から今の性格や能力、記憶をすべて抽出し、そっくりそのまま同じ人格としてデータ化する技術が確立されたらしい。ついにおれたちは脳すら捨てて、情報そのものになることができるのだ。もう寿命なんてものに縛られることはない。
「……やっぱり、実体なんてないのが一番だよなあ」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。大丈夫、怖いことなんて何もない。肉体を捨てるたびに、おれたちはひとつずつ煩わしい制限から解放されていく。それは素晴らしいことに違いなかった。アップデートに関する同意書の必要事項を一つずつ記入しながら、おれは歌を口ずさんでいた。それは、あの架空のイタリア旅行のゴンドラの上で、妻と娘が楽しそうに歌っていた歌なのだった。
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