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出逢い

駅のホームから眺める街の風景は、今まで見たこともないような紅い色に染まっていた。
それはまるで、画家が絵具の調合を間違え偶然発見されたような、画家の意図を超越したような紅い色だった。
画家はその紅い色を使って、画家のすべての情熱とともにその一瞬をカンバスに描きとる。その作品が世の中に出ることもなく、ひっそりと消えてゆく運命にあることを知りつつも。

わたしがあなたを最初に見かけたのは、駅の踏み切りの向こうに、真っ赤な夕日が沈みゆく時だった。
そのときのあなたは、大きなバッグを肩に担ぎ、大股で歩いてどこかに急いでいるようだった。あなたが踏み切りを渡るほんの一瞬の間のことだったが、夕日に照らされたあなたのシルエットは、強烈な日射しの熱とともに、わたしの心の深いところに焼き付けられてしまったのかもしれない。

あれから三カ月が過ぎようとしていた。
晴天の日が何日も続いていた。
焼き付けられた彼のシルエットは、今でも鮮明なままわたしの中に残り続け、駅の近くに来ると自然とあなたの姿を探して辺りを見回してしまう。
今まで、どんなに魅力的な男性に会っても、心惹かれてしまうことなどなかった。ましてや、一瞬その姿を見ただけで、顔も素性も性格も分からない人に対して、こんなにも気になってしまうことなどあり得ないことだった。
四十も半ばを過ぎた、わたしの年齢を知ってか知らずか口説いてくる男性も何人もいた。
大概はありきたりの口説き文句が彼らの口を衝いて出る。
そんな時は丁重にお断りして、次の瞬間は夕食のメニューを考えていた。
ましてや、わたしには夫がいる。
どんなに素敵だと思ったとしても、わたしの思考回路にはその人と恋に落ちたり、抱かれたい…、なんていう妄想の起きる余地はなかった。
夫がいて、その夫と熱烈な恋愛を演じているわけではない。夫や家庭に対して不満がないわけではないけれど、とても満ち足りた日々を過ごせていると思う。
それがとても幸せなことだと思っていた…。

ある時、駅の広場にあるベンチに腰掛け、スマホを覗きながら友達が来るのを待っていた。刹那、日差しの反射で光っていた液晶が翳ったので、うつ向いていた私は顔を上げた。逆光でシルエットしか写らなかったが、わたしの前に立ったのは、正しくあなただった。
わたしの息は一瞬止まってしまった。わたしがどんな表情をしてあなたを見上げていたのかは分からないが、白い歯を見せて微笑んでいるあなたの表情は分かった。そしてその間、わたしは催眠術に欠けられたように一言も話すことができず、ただじっとあなたの姿を見つめるだけだった。
「大変失礼なことかもしれなかったのですが…、」と言いながら、あなたは一眼レフのカメラの液晶をわたしに見せた。そこにはわたしが写っていた。遠景からのショットだったが、辺りの風景はぼやかされ、そこからわたしだけが切り出されていた。かといってその場から浮いてしまっているわけでもなかった。そして、そこに写っている女の姿には、その女が抱えている心の陰影も投影されているようだった。

「お気に障られるようでしたら、すぐに消します」優しい響きだったが、あなたはいじわるするように言った。
「素敵な写真!」わたしは…、迂闊にも言葉を滑らせてしまった。そこに写っているわたしは、わたしの持っている、自分が写っているどの写真よりも素敵だった。
突然そんなことをされてたら…、勿論抗議して、すぐにその場を立ち去っていた。
しかし…、今目の前にいるのは、あの時駅のホームから見えた夕日に照らされていたあなただった。そして、あなたが撮ってくれたわたしの写真は最高の出来だった。
あなたとわたしの恋の物語が始まった瞬間だった。

……、いいえ、あの三か月前、既にあの瞬間から私はあなたの虜になっていたのかもしれない…。

Mr. D



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