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ジャンル蝗とオタ活ビジネスについての所感

ヘッダー画像はchatGPTに作らせた「推し活」の筆文字ですが、「推し活」に見えない。
まきなです。まあTwitterに書いたこと9割なんですが、まとまった文字の方が読みやすいので、ここに文章も投げます。


最近流行りの推し活について、同僚から相談を受けたことがある。「推し活がやってみたいけれど、推し活の仕方を教えてほしい」と。

私はそのたびに「推しがいないのであれば無理やり推し活をする必要はない」と返していた。実は何人もの同僚から言われたが、どうやらシナリオは好きになるがキャラにのめりこむ心境がわからないらしい。ただ、推し活はやってみたいようであった。

「推しができたら毎日楽しそうじゃないですか。推しがいる人は毎日が楽しそうだから」

同僚たちの言葉

そんな相談を受けて、不思議だと思った。私の場合、推し活に見えているであろう冬馬の追っかけは冬馬が好きだから、尊敬しているからこそしているのである。したがって、別に推し活というくくりでやりたくてやっているわけではない。むしろ、推し活ビジネスに対しておいしい蜜は吸っている自覚はあるものの、全体としては懐疑的であるため、そんな相談に困惑した。

だってオタクが楽しそうに見えるかもしれないけど、オタクたちのあれそれは面倒くさいし、グッズだってほしいものじゃないやつが出たらヘイトは溜まるし、バンダイナムコのSDGsは取り消させたい気持ちしかないし。

今、インターネットには二つの不思議な引力が発生している。「推し活」と「ジャンル蝗(175)」である。「推し活」とは”推しへの愛に関わる活動”という意味であるらしい。そして、ジャンル175とは、流行りのジャンルばかりに乗っかっている人のことを指す。

ジャンル175は推し活という経済活動によって生まれた「推しがいない人が推しをむりやり作ったときに発生した事象」であり、オタクの「推し」に対してのそれとは別のものであると考えている。
(※ここでの「推し活」は企業的な戦略の一環で作られたムーブメントのことであり、個々人のことを指す意図はない)

ふと、なぜそんなことが流行っていたり、経済関係でもてはやされていたりするのか考えてみると、人間のうちにある「孤独」や「満ち足りなさ」を推し活というわかりやすい指標でちやほやしているのであろうと感じ取った。孤独や満ち足りなさほど経済を回す根っこになるものはないのである。

ジャンル175をする人は、本当の意味合いでは推しと出会えていないからこそ渡り鳥をしているのではないだろうか。旬の話題についていけているということがアイデンティティになっているのかもしれない。そして、オタクが純粋に推しをめでている姿に対して、「楽しそう」と思うからこそ、そのオタクがしていることを真似しているのではないかと考えていた。

勝手な憶測なので事実であるとはいいがたいが、推しを本当に好きなオタクはキャラから「降りる」ことはほぼほぼ見かけない。ジャンルの175をしている人ほど、担当やコンテンツから降りるのである。そして、また別の旬のジャンルに飛んでいく。さながら蝗の如くである。

※追記
ジャンルを降りるとき、別に175ではない方で起きる現象として「運営が嫌いになる☆」があり、割と自コンテンツでお目にかかります。そして、運営が嫌いになる☆で推しの担降りされる方は割と年数がたっている人が多く、由々しい問題だと個人的に感じている次第です。何とは言いませんが、経営層が場を荒らして運営をしている現場が詰んでそうなジャンルです。

かく言うお前は呪術、鬼滅とはやりものが好きであろうという意見は否定をしない。ただ、私は「冬馬が好き」という軸や前提がある下で、「なぜ○○という作品が評価されているのか知りたい」から見ているだけであり、最後に帰るところは冬馬である。(流行る前からそのジャンルが好きなことが多い)信頼しているフォロワーの勧めで旬ジャンルを履修して、沼に落ちている。旬ジャンルに沼に落ちすぎだとは思われていそうではあるが…。
(※好きになった場合は基本的に降りないので、鬼滅は3.5年、呪術は2.5年選手なので割と長い期間好きでい続けているし、アニメも待ち望んでいた。)

話を戻す。ジャンル蝗は推し活ビジネスに回帰し、推し活ビジネスの大筋には孤独感を抱えた現代人が、孤独ではない趣味を有していると錯覚したい部分から生まれたのではないかと思う。そこに「推しと設定したキャラクター」に対する愛はあるのだろうか。私にはわからないが、五条悟が呪術2期が終わった瞬間に結構でかい担降りを何個か観測したので、見栄のために推しを推すのは続かないよなと思った次第であった。

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