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【立秋】寒蝉鳴(ひぐらしなく)

季節の変わり目の雨が降る。「この時期に前線の停滞っておかしいよね?」と、友だちの投稿に見る。もう何がおかしいかわからないけれど、全国各地で大雨の被害予想を告げるアラートが鳴り響くのはとても恐ろしい。「いのちを守る」「生活を守る」ということの切実さが年々増している。気づけばそんな時代を生きているのだ。

「誰ひとり置き去りにしない社会へ」という対話の場を、5月から毎月開催している。今月は27日。コロナ禍の生活困窮者 - 日本・世界の現場では何が というテーマで、世界の医師団 日本 事務局長の米良彰子さんにお話をいただく。

「世界の医師団」は国際NGOだが、コロナ禍にあり、国内の生活困窮者の支援活動にも携わっている。ホームレスと呼ばれる人たちに対して多くの人が抱いているイメージが、実態とはかけ離れているということを聞いた。かつてより若い年齢層が多く、見た目も普通に生活している人たちと見分けがつかない人たちが大半であること。多くが「エッセンシャルワーカー」として働いていること。「路上の人からの感染が怖い」と印象を持つ人たちが少なくないが、実際は、路上の人たち - 何らかの疾患を持つ人も多く、ケアから漏れやすい- に感染させることへの配慮こそが必要であること、などなど。

そんなやりとりをする最中、某インフルエンサーによる、生活保護受給者やホームレスの人たちの命を軽視する発言が話題となった。驚く。ゾッとする。胸が痛く、その発言そのものの映像を目にする勇気をまだ持てていない(このあと、見ようと思っている)。

怒り。と同時に、こういった言葉が生まれる背景にあるものが何なのかと思いを巡らす。もともとそのタレントさんを好ましく思っていなかった私は、「あんな人」という批判を簡単にできてしまう。謝罪の映像......それさえも計算高いのだろうなと推測する私のこころ。一方で、それでもやはり、ひとりのいのちとしてその人にまなざしを向けることができたらと思う、私の試み(願い)。

痛みや苦しみ、憎しみ......。私にはそれが「社会(時代)が共有するもの」に思えてならない。人に触れられることを怖れる小さな闇。それはきっと誰のこころにも存在するのではないか。奇妙なことに、祝福や喜びよりもずっと、その闇の方が(共有感)を抱きやすい確かな存在に私には思える。それは、その(深さ)が故であろうか。

肌寒い一日。それでもなお冷房の効いた空間でカフェラテを頼み文章に向き合う。温度を調整するのに、ひとりでいるには空間は広すぎる。私たちはわかちあう必要があるのだ。その程よい方法を見出すにあたり、心地よく出会う方法を知りたい。決まりや規則に頼らずに会話することのできる力を手にしたい。

雨雫に濡れた窓の向こうに、ターコイズと薄緑をした小さな庭が浮かぶ。生ぬるく、急に冷たい夜の海を泳ぐような、無重力のキック。身体は何故かそんな感覚に包まれている。夕暮れ時。まだ明るいが約束があるので部屋へと戻る。

寂しさが欲しい。こころの繊細なところに降りてゆくのに十分なくらいの静けさの中に身を置かせてはくれないだろうか。

目を閉じて想う。不安のなかにいて手をつなぎたい人のこと。迫りくる気配。闇へと引き寄せる、蜩の声。

8月15日追記:
書くことを通じて思ったのは、私たちは(願いを胸に、試みを続ける存在)なのではないかということです。(こうありたい)という理想があってもそれを生きるのは簡単ではない。それでも挑戦し続けたいというところに、少なくとも私の大切なものがあるような気がします。