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ヒカシュー、デビューアルバムのこと

 よく歴史的な場所に行くと、そこはもぬけの殻ということがある。ヘロドトスの「歴史」に出てくるパジリク遺跡の発掘跡もただの草原だ。黄金という黄金はすべて持ち去られた後である。音楽もそういうことがよくある。名前だけが残り、精神の跡形もない。テクノポップしかり。ヒカシューはとっくにそんな場所にはいなかった。
 「ヒカシューはずっとやり続ける」と、あるテレビ番組 のインタビューで言ったことがいま現実になっている。30年(2009年時点)経っても現役なのは、登場していた3バンドのうちヒカシューだけだ。1978年の8月に初ライブ、レコードデビューしたのは、1979年の10月。まだテクノポップという言葉さえなかった。テクノポップという言葉は、ロックマガジンで阿木譲が使ったものだ。 それをヒカシュー、P-MODEL、プラスチックスの出版権を持っていたパシフィック音楽出版が、欧米のニューウェイブやパンクに呼応する形で登場した3組を、お約束の御三家で売り出す計画の中に取り入れたことによって大きく広がった。
 YMOは、ほぼ同じ時期にはじめたのにも関わらず、 先駆的に見られるのは、彼らがすでに音楽界で職人的に活動していたからだ。使っていたシンセサイザーも大袈裟なもので、専属の人間が技術を担っていた。
 それに比べ、ヒカシュー、プラスチックス、P-MODELは、当時やっと手に入れることのできる値段になりつつあったシンセサイザーを自分たちの手で使いこなし、作品もブリコラージュな共通項があった。それに3組はライブハウスで頻繁に演奏していた。またヒカシューとプラスチックスは、生のドラムがなく、リズムボックスを使用した最初のバンドだった。1978年、デモテープをニッポン放送の番組をしていた近田春夫に渡しに行った時、偶然、立花ハジメと出会い、お互いのグループの共通点に驚いたことをいまでもよく覚えている。
 またヒカシューは、メロトロンを使っていたのが大きな特徴だ。それも内部のテープは既製品でなく井上誠による自作だ。「いやよ」「どっこい」「ぎゃー」「はいはいはい」、「あー」というコーラスまで、ひとつひとつ録音していた。しかも効果音の連続的な演奏は、リアルタイムで行っていた。この頃はサンプリングという用語もなく、アナログとはいえ、現在のサンプリングの方法論を先取りしたものだった。「20世紀の終りに」と「幼虫の危機」をよく聴いて欲しい。
 さて、よくヒカシューは演劇的という言われ方をするが、まともにそのことを検証した文章にお目にかかったことがない。確かにデビューアルバムに収録されている数曲は、「幼虫の危機」という演劇パフォーマンスのために作られたものだが、その演劇は、シェークスピアでもチェーホフでもない。もちろん歌舞伎でも新派でもない。言ってみればダダ、シュールレアリスムの系譜に所属するものであり、イギリスのフリンジシアター<ルミエール&サン>の方法論に依拠していた。また「プヨプヨ」 における歌唱法は、日本の古典芸能の意識的なフェイクであり、5拍子と4拍子のポリリズムやタブラ、シタールを使用した民族音楽的アプローチ、フリーインプロヴィゼーションまでもが含まれている。「炎天下」における口琴の使用。随所にみられるオノマトペや声のパフォーマンスは、その後のヒカシューの方向性を完璧なまでに映し出している。デビューアルバムというものが、かくも重要なものであることを思い知らされるばかりだ。
 録音は、EPシングル盤になったA面の「20世紀の終りに」が最初で、続いてB面の「ドロドロ」を録音した。しばらくして、LPアルバムの制作に入り、まず録音したのが「レトリックス&ロジックス」である。そのイントロで渾沌のインプロヴィゼーションの中から、ジュピターのオートアルペジオが聴こえてくるということを考えたが、当時のディレクターは冷静に、インプロヴィゼーションを割愛することを勧めた。
 プロデューサーの近田さんは、リズムボックスだけでは、音として未完成と思っていたのだろうか。いくつかの曲で生ドラムのサポートを使用することにした。まだジューシーフルーツではなかった高木利夫(1,7,9)と81/2の泉水敏郎(2,3)が参加した。また高木は、「20世紀の終りに」で、スネアドラムの補強をしている。知られていないところでは、「幼虫の危機」での叫び声を当時交流があったアーントサリーのPhewが行っている。
 ジャケットの表面は、小暮徹さんによる撮影で、いくつかのプランがあって、ぼくは部屋の中に海があり、船にヒカシューが乗っているというのを希望したのだが、予算上叶わず。小暮さんが他のバンドのジャケットでも使っている空中浮遊になってしまった。東京オリンピックの赤いブレザー衣装は、近田さんの発案で、苦労してマネージャーの堀上さんが集めてくれた。裏面は、滝本淳助による撮影で、夕方、練馬の豊玉北6丁目の交差点にコタツを持っていき、パジャマでポーズしたものだ。
 ヒカシューにとって本当にはじまりのアルバムだけに、今回の丁寧なCD化によるリイシューはとてもうれしい。このアルバムを皆さんの大切なアルバムのひとつに加えていただけたら、幸いである。


巻上公一
2009年7月31日 ブリッジよるリマスター紙ジャケ発売に寄せて

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