見出し画像

人の気持ちに寄り添えない/寄り添わない

妊娠してからというもの、同じく妊娠中の方のブログを定期的に読むようになった。よく読むのはアラフォーで初産で、そして出産時期が近い似たような境遇の方のものと、「流産・死産」という形でお腹の中の命を失ってしまった方のブログ。二度流産の経験があるせいもあるのだろうけれど、そもそも私は常に「最悪」を考える。だから自分の身に同じことが起こっても、できるだけ冷静に受け止められるように、自分を責めないように、予防線を張っている。

そんな中、死産の経験を乗り越え現在妊娠中の方がご自身のことを「死神かもしれない」と綴っているのを見かけた。というのも彼女は、可愛がっていたペットを、先日突然亡くされた。だからそれをキッカケに死産の記憶がフラッシュバックし、そして自分の身の回りで立て続けに訪れた死から自身を死神と評されたのだろう。ただ私はその方の思考についていけず、一瞬何のことかわからずに混乱した。死産というつらい経験をされたものの、その後彼女はまた新しい命を授かっている。飼われていたペットも突然死とはいえ高齢だ。だから何故彼女が自分の身に立て続けに降りかかる不幸を呪えど「死神」と自分を責めずにはいられないかが分からなかった。

以前、ひとり旅の最中に性被害にあったことがある。性被害にあった上に全財産をとられ散々な思いをした。ただ被害当日こそ自分が汚された気がし泣きはらしたものの、次の日からは気持ちを切り替え、警察の事情聴取の合間はできる範囲で観光をした。最悪な思い出を上書きするべく美味しいものを食べ(クレジットカード会社と交渉し、ホテルへのチャージという形で現金を手にしたのだ)、オプションツアーに参加し、そして帰国する頃には「不幸にして性被害にあったものの、変な病気に感染した訳でもなく、結果ひとり旅の予定より贅沢できた」と思うにいたった。ただ私のこの立ち直りの早さは少数派なようで、以前同じように性被害に遭われた方にお会いした際、「実は私も」と打ち明けたけれど、嘘をついているのではと疑われた。

そして昨日、こんなやりとりをみかけた。

なるほどなあと思う。私は「死ぬこと以外はかすり傷」とまさに思うタイプの人間だ。そしてこのやりとりを通じてものすごく腑に落ちた。私のそのスタンスが、時にまだ傷が癒えていない人にとっては耐え難い存在になる。

ブログやSNSを通して自分の考えを発信している。WEBの媒体に寄稿もする。そのたびに画面の向こうで誰かが傷つくのを想像する。

 私は今までも、そしてこれからも寄り添えない。私にできるのは「死ぬこと以外はかすり傷」そう自分は思うと発信すること。ところがそれは時に人の心を、深くえぐる。

だけど私は、寄り添わない。誰かにとっての呪いの言葉が別の誰かにとっては救いになる。私がこれまでの人生、「死ぬこと以外はかすり傷」のおかげで救われてきたように。

人間というのは悲しいかな、どこか傷つけあいながら生きていくのかもしれない。そう思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?