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渋谷の月

果たされなかった約束を供養するために街へ出る。

渋谷で月をみるならセルリアンタワーのベロビスト、そう思っていたのに今はアルコールを出さないだけでなく19時で閉店という。やるせない2021年、お月見日和。地上40階、187mを上ってすぐ下りる。

仕方なくセルリアンを出て左、だらだらとした坂を歩く。都会を凝縮した幹線道路沿いから旧山手に抜けて、かつての恋人、とよく渋谷から一緒に歩いた道を辿って、ただ松見坂の交差点への道に曲がることだけはやめ、まっすぐに進む。

松見坂には遠い昔大きな松が生えていた。近辺を寝ぐらにしていた盗賊、道玄が、襲う旅人を見つけるため、その松に夜な夜な登ったから松見坂だと、かつての恋人、はおかしそうに教えてくれた。松の背後には大きく月が出ている気がして、ずいぶんと風流な盗賊だよねとふたりで笑った。

今でもかつての恋人、は同じ場所に住んでいるという。淡島通り沿いのクラシックなマンション、いつかふたりで選んだラグやカーテンが、どうかそのままじゃありませんようにと願い、ただそのままだったらそれはささやかな呪いのようで、いや、そんなことを考えるのは今日をもって、やめにする。

近辺の看板を出さないバーやカフェは取り壊され、今は真新しいマンションに置き換わっている。そのうちのいくつかはかつての恋人、と、まあそんな場所は無数にあるから、心はこれ以上痛まない。

そしてKONAMIスポーツの交差点を右、ふたつめの角を左に曲がる。そこには大きな池のある、何度も一緒に訪れた公園がある。公園内の自販機でお茶を買い、ベンチに座って、ひとり池と月をみる。ここならいい恋の供養になる。そっと手を合わせてみる。

マイク・オールドフィールドのムーンライトシャドウ、は、悲しい別れを歌っていた。

The last time ever she saw him
Carried away by a moonlight shadow
彼女が最後にみたのは
月の影にさらわれてしまった彼

He passed on worried and warning
Carried away by a moonlight shadow.
彼は彼女のことを心配しながら、案じながら
それなのに月の影にさらわれてしまった

Mike Oldfield "Moonlight Shadow" 

レベッカのムーンという曲も、家出した娘の身を案じる母の歌だった。そもそも月にウサギがいるというのも、老人に自らを焚き火にくべたウサギの話から来ているという、そう、月は悲しい、月は大切な人を連れ去ってしまう、そして約束は守られず、選ばれなかった自分が月をみる。

それでも月は、美しかった。池の水面が風が通り抜けるたびに揺れて、それを照らす月は美しかった。木の葉の掠れる音、土の匂い、そして大きく空に浮かぶ渋谷の月。

ベンチから立ち上がって、池に沿って歩いた。途中の街灯の光が届かない薄暗い道から住宅街に抜け、繁華街を目指した。そして渋谷の雑踏に少しほっとして思った、来年の渋谷の月を、まだ見ぬ恋人とふたりで。そしてきっと今日のことを、笑って話す。


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