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2021/8/10 人間のしょうもなさはそれぞれの内に

最近読んだ20世紀最高の文学と言われている「ユリシーズ」にはしょうもない人間ばかり登場する。主人公のブルームも妻のモリ―も、彼が後に邂逅するスティーブンも、そして彼彼女らを取り巻く登場人物全てがしょうもないな、というのが初読の感想。特に第3巻にはお酒に酔っぱらったブルームとスティーブンが売春宿でみる幻想の話があるのだけど、まあ内容が猥雑だし暴力的だし本当にしょうもない。ただじゃあ自分はどうなん?て思えば、濃淡の差こそあれど結局地続きだ。

人気Youtuberがホームレスに対して侮辱的な発言をした、なんてニュースを見かけるたびに、私は人間の「しょうもなさ」が表に出た、と思う。

昔は人間の「しょうもなさ」が「しょうがないもの」とされていた。たとえば社会に危害を加えた人は八つ裂きの刑やギロチンに、そしてそれは市井の人たちがその残虐なシーンをみてスカっとするために公共の場所で行われたし、感染症になった人を幽閉してそのままにするような政策に、多くの人が何の疑問も持たなかった。
たとえ誰かが殺人を犯したとしてその対象が誰か~もしその相手がホームレスだったら罪が軽くなるような~そんな世界観で社会が運営されていた。

今こうやって「その発言はよくない」とされ、多くの人が異議を唱えること。私はそれを「進化」だと思うし、願わくば人間のたどりつく先はもっともっとソフィスティケイテッドされるとよいなと思う。
ただそれにしたって人間の「しょうもなさ」はそれぞれのうちに内包されている。差別的な感情は誰の中にもあって、ただそれを乗り越えた方がよりよい社会になる、と気づいたから「今」がある。嫌悪すべきは人間の内包する「しょうもなさ」で、それをしなければ結局ホームレスを排斥する思想と地続きだ。それは「後退」へと繋がってしまう。

そんなことを考えながらコーヒーを飲んだ。ダイエット中なのに食べたアーモンドタルト。私の「しょうもなさ」。

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