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私の生きやすさと、それに纏わる書き手としての欠点

大学1年の春、差別を受けた。サークルの勧誘を受け、新歓コンパ参加希望名簿に名前を書いたのに、友人には電話がかかってきて、自分には来なかった。選ばれた人しか呼ばれない飲み会、と友人は言われていて、そこに呼ばれなかったことに当時の私は大きなショックを受けた。
「見た目」に纏わる不愉快な出来事はそれまでもきっと何度かあった。ただ露骨にそれを感じたのは初めてだった。
その時私がとった選択肢は世の中を憂うことでも相手を憎むことでははなく「そういう価値観の人間に近寄らない」だった。

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「あんなにいい人と離婚したなんて」や、「いい会社に入っているのに転職するなんて」、「生後2か月から保育園に子を預けるなんて」。そんな自分の意にそぐわない助言をする人を私はいつも疎んじた。考えてみる、口ではそう言いながら、価値観が違う、そう感じたらそっと距離を置く。
相手に対して、自分の価値観を伝えようと試みることはほとんどなくて、というのも、それより似た価値観の人とつながる方が、私にとっては遥かに楽だから。

それを重ねに重ねた先に私の生きやすさがある。自分に対して不愉快な言動、不愉快な価値観をまとう人間を身の回りにおかない。または、多少の不愉快は許容し、聞かなかったことにする。
おかげでここ数年、社会や他人に対して強い不満を持ったことがほとんどない。違和感がある発言をSNSで見かけたらミュートする。職場や所属しているコミュニティで見解の相違があっても、最終的に多数派に身を委ね衝突を避ける。
私のSNSの発言をみた方からポジティブですね、と声をかけられることがあるのだけど、それは長年「ネガティブ」を徹底的に避けているからでもある。体調を崩しでもしない限り、私の世界は日々とても快適だ。

ところが今、そんな生き方をしてきたが故の、書き手としての欠点と直面している。それは価値観のすり合わせを避け、自分の思いを他者に対してぶつけてこなかったことによる言語化経験の不足。なぜ離婚するのか、転職するのか、子どもを2か月から保育園に預けてまで働くのか。異なる意見を持つ人を私は煙たがり、そばに置かず、対話することを避けてきたから、いざ文章にしてもちゃんと伝えることができない。
更にそれは他者の話をきちんと聞いてこなかったことでもある。ピンとこない意見は無視するか、時にはあまり深く考えずに「同意」することが日常だった。相手の考えを掘り下げることもしなかったから、私の文章はとても浅い。

自分と異なる考えに触れた時こそ、自身の思考を深めるチャンスなのだと思う。そして時にそれは自分が変わるキッカケにもなる。それに気づいた今、もう少し良いものが、これから書けるようになるかもしれない。

一方でこのぬるい世界から足を一歩踏み出す「面倒」がそこにはある。良い書き手になるためには必要と分かっていても、果たしてそこまでして何かを書きたいのか、と自問自答する、そんな今日。

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