鴨長明「方丈記」(1212)/ 比較して得る幸せ
彼と私は違うところが多くあるのだけど、そのうちのひとつが「比較」の頻度だと思う。私は昔から自分の状態を何かと比較する傾向があって、彼にはあまりそれがない。
「比較」の悪い点は自分でもよく分かっている。それはまず比べられた方が非常に嫌な気分がするし、「比較」で得る幸せは別の優位性を持つ他者によって簡単に脅かされる。
「比較」するような人間がチームにいると、チームは常に競争を強いられているような、居心地の悪いものになる。「比較」は他者に対する敬意が足りていない。元アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトも
"Comparison is the thief of joy(比較は幸せを奪う)”
そんな言葉を残している。比べるなら過去の自分であって、他者ではない、条件も環境も違うから、そもそも比べることに意味はない。
そんな「比較」の悪い点を今まで十二分見聞きし実感してきた私なのだけど、やっぱり比較してしまう、そして幸せの拠り所にしてしまうと実感したのが新井満さんによる「鴨長明『方丈記」』自由訳」を読んだ時のことだ。
私にとって「方丈記」がつくづく印象深いのは「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」という、あの有名な出だしの部分ではなく、冒頭に記録されている大火事に竜巻に混迷する政治、飢饉、大地震、と相次ぐ平安末期の天災の描写による。
方丈記と己の戦争体験を重ねたエッセイ「方丈記私記」の著者、堀田善衛さんが「方丈記」を特別に思っているのは、その描写が堀田さんが第二次世界大戦で実際に体験したことと重なったからだった。
どうも鴨長明は誇張していたのではなく、確かにその光景をみたらしい、というのが堀田善衛さんの感じたこと。そんなひどい時代を私のご先祖様が乗り越えて、今の私がいる、というのが、ひとつの奇跡なように感じる。かなり分かりやすい訳で方丈記を読んで、その思いはますます強くなった。
その晩、子をやっとの思いで歯磨きさせ、思うように自分の時間がとれなかったこと、その上子を寝かせるのが遅くなったなあと反省しながらも、自分の幸せを噛み締めるのは、やはり鴨長明の経験した時代と比べ、自分は何て生きやすい時代に生まれたのだろう、という感慨が大きい。自分が既に持っている幸せの大きさにで目を見張る。
これは私にとってすごく大事な感覚。なかなかそれを手放すことができないし、一生手放すことがないのかもしれない、そんな風に思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?