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2021/7/22 私が知っている「ホロコースト」のこと

1999年にフランスのボルドーの語学学校に1ヶ月通った。そこで仲良くなったドイツ人に「なぜ日本人は(同じ同盟として戦ったのに)戦争の罪悪感を持たずにいられるんだろうね」と言われてびっくりしたことを今でも時々思い出す。聞くとドイツでは学校で散々ナチスドイツがいかに残虐なことをしたかを徹底的に叩き込まれるという。そしてその加害は「ドイツ人」の罪であるとも。

当時その話を聞いた私は「なんでそこまで・・・」が正直なところで、もう終わったことなのに、そう思っていた。その後ナチスを少しでも揶揄するような表現が厳しく制限されていることをヨーロッパの事情として知りながらも、厳しすぎるように感じてた。

その文脈を別の意味で捉えるようになったきっかけはカズオ•イシグロの「日の名残り」だ。戦争中にナチスに加担してしまった主人を持つ執事の話なのだけど、この作品の考察で、執事がユダヤ人だった可能性がある、と知り、作品の見え方が180度変わった。ユダヤ人であることがバレたら仕事を失うばかりか強制収容所に送られてしまう危険もある。絶対にバレたくないという思いで、ナチスを肯定する主人に仕えるユダヤ人の心持ちを想像してゾッとした。
そして先日、ミラン=クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読み、いかに独裁政治が行われている中で体制に従わないことが不利益になるかを追体験した。事あるごとに「選択」を迫られ、従わないことで職を追われ、多くの人はそんな「非協力者」と関わらないことを選ぶ。

第二次世界大戦中、何が行われていたかというとユダヤ人狩りだ。ユダヤ人は捕らえられ、強制収容所に送られ、そしてその多くはガス室に送られ殺された。それはユダヤ人にとって恐ろしいだけではなく、ユダヤ人以外にとっても恐ろしい施策だった。秘密警察が家にやってきて、ユダヤ人の居場所を知っていたら言え、と言う。そのユダヤ人とは隣人・友達・同僚と顔見知りだったりする。自分とその知人を天秤にかけて、どちらかを選ぶ。

Wikipedia「ホロコースト」のページに殺されたユダヤ人の推定数リストがある。

ドイツ・オーストリア・ポーランド・ベルギー・オランダ・フランスと誰もが知る国々の名前が並ぶ。これは被害者が暮らしていた国のリストでもあり、ナチスに協力するかしないかの選択を迫られた国のリストでもある。

「ホロコースト」がユダヤ人だけの悲劇じゃないのはそんな背景がある。2021年現在でもドイツやフランス、オーストリアでホロコーストを否定したり矮小化するような言動をすると刑事罰が適用される。それをかつて私は「言論の自由」という観点から行き過ぎていると感じたのだけれど、「贖罪」なんだと今の私は思っている。



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