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建築が経つ前の暗い淵

気が向いた時に書いているnoteですが、これからはできるだけ定期更新していこうと思っています。

下記は昨年JIAコンペの審査委員長としての総評。JIAの機関紙に掲載されています。

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建築は強く明るい。
あらゆるデータが日本社会の凋落を示し、社会のところどころに穴が空き始めていることを肌で感じるようになってきても、建築はあくまで強く明るい、と思う。
建築雑誌を眺めていると、建築はその強さと明るさで、社会に開いた穴にフタすることを求められているのだと感じられてくる。
パッチを当てただけで穴自体が恢復するわけではなく、近年それはますます顕著になってきている。
建築はもはや社会を恢復しないとしても、パッチとなりうることは建築の素晴らしい側面だ。

今回のテーマ設定にあたってはそのフタを剥がして社会の奥底を流れる粘度の高い何かに触れたいと思った。
建築が生まれるずっと前段階の源流。
それがサブタイトルに表されている「外側で生きること、他者と出会うこと」である。
カーンの言葉を借りれば、それこそが建築がはじまる元初であるような何か。
カーンのいう「元初」はそこから全てがはじまる特異点だが、存在をアプリオリに確認できるようなものではない。物事が進行していく過程で遡行的に見出されるものである。つまり到達点でもある。
カーンによればすべては元初から始まり、元初を見出すための過程なのである。

社会の底を流れる何か、とは個人にとって切実さを持つ共同体の姿であると思う。例えば家族であり、一昔前なら地域共同体もその一つだっただろう。個人と社会との間に横たわる共同体。社会は個人にとって切実ではないが、共同体は切実だ。
ここで思う共同体というのは、東日本で言われた絆や助け合いを含みつつも異なるものだ。個人を生かしも殺しもする、もはや個人であることを知った現代の私にとっては切実でありながら忌まわしいものでもある。
経済合理性や市場原理という入力と出力の関係では捉えきれない、共同体を本当に生かしてきたものは何だろうか。
これからの技術が、そこに関わっていくことがあり得るだろうか。
コンペのタイトルというのはある種の機能文である。サブタイトルが帰着点なら、メインタイトルは出発点として機能するものでなければならない。
そこで、メインタイトル「辺境でAIと死者と暮らす」は出発点として提案が答え合わせ的にならないよう、あえて喚起力の強い隠喩的なキーワードを詰め込んだ。
結果、良くも悪くもキーワードに引っ張られた感じはあり、AIがとかく議論の対象になった。AIの捉え方が雑駁すぎるという批判もあり、それはそれとして受け止めたいと思う。
が、ここではAIも死者も人外知あるいは集合知の隠喩なのである。
一方はテクノロジーであり、もう一方はナラトロジーだ。どちらも建築を形づくるのに不可欠な要素である。

共同体というのはテーマの背景として私が個人的に考えていたことで、コンペテーマとして直接的なワードを前面に押し出したわけではなかったが、今回二次審査に残ったものは共同体なるものを言及した作品が多かった。
金賞となった「補陀洛渡海」、銀賞となった増築の提案「辺境に立つための増築」、銅賞受賞のAIコロニーの提案「シェアするカラダ」、審査員賞受賞のサバイバルユニットの提案「辺境に暮らすコンペ応募案」はいずれも広い意味での共同体の存在が見え隠れする。
一方、銀賞の「身体を持たない他者と暮らすことは私たちの身体をもう一度考えること」、銅賞の「純粋・思索の空間への回帰」など純粋に意味(含無意味)空間的な試みとして提案したものもあり、いずれも興味深かった。

JIA東海設計支部コンペは近年、JIAという公益法人が地方で開催するアイディアコンペであるということに自覚的に、メジャーから零れ落ちるものを拾うという姿勢を明快に打ち出したテーマ設定を行ってきている。
このことは、同じアイディアコンペでも企業主催の学生コンペとは一線を画する大きな背景になっており、テーマも必ずしも今風=企業が求めるような明るい消費社会の新しい描き方というよりは社会の深淵を抉るようなものが多い。
そのため、決して数的に大きなコンペではないが一定の支持があり、全国のみならず海外からの応募があったり、毎年チャレンジする人がいたり、幅広い年齢層からの応募があったりと、応募者も提出作品もバラエティに富んでいることが特徴だ。
今回も県外からの応募が多数を占め、大学生だけでなく高校生や社会人それも熟年層からの応募があったことは個人的には大変嬉しかった。
さらに二次審査で提案者も含めた活発な議論が行われたことも大変喜ばしかったと思う。
これからも、東海支部コンペがこうして開かれた議論の場であり続けることを願ってやまない。



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