本屋さん
#note100本ノック
Day 51
わたしはたぶん、わりと本が好きだ。
小学生のころは図書室が居場所のひとつだったし、何より父と「本屋さん」に行っていたことがそのきっかけだったかもしれない。
本屋さんにて
あえて「書店」とは書かず「本屋さん」と表記したい気持ち。
なぜなら父が連れて行ってくれていたのは、街角にある小さな書店で、わたしは「本屋さん」と呼んでいたからだ。
今はもう、ほとんど姿を消してしまった街角の「本屋さん」で、小さなMAKIはワクワク本を選んでいた。
父は、おもちゃはなかなか買ってくれなかったけれど、「本屋さん」に行くときは「一冊好きな本を選んでいい」がルールだった。
街角の本屋さんのラインナップ
あらためて面白いと思うのが、今の書店との違いで。
街角の本屋さんはたいてい小さな本屋さんなので、どんな本でも置いてあるわけではない。その本屋さんのお眼鏡にかなった本が置かれているというわけだ。
いまでも手元にある街角の本屋さんで出会った本といえば、こちら。
黒柳徹子(1981)『窓ぎわのトットちゃん』.講談社
これは確か、千葉県に住んでいたころに街角の本屋さんで買ってもらった本だ。のちに教員となるわたしのバイブル。この頃は自分が先生になるなんて、一ミリも考えていなかったけれど。
また、手放してしまったが思い入れのある本はこちら。
増田戻樹(1981)『オコジョの住む谷』.あかね書房
大好きだった。なぜ手放してしまったのだろうと今も悔やむ一冊。初めて出会ったオコジョが、愛らしくて可愛らしくて、ずっと眺めていたい本だった。
元畝淑子 (1983) 『ごめんねひさこちゃん』.筑摩書房
お子さまを亡くされたお母さんの手記。「このお薬をたっぷり飲ませなさい」という医師のことば、そのあと亡くなった子ども、残されたお母さん。小学生の自分の概念形成に、大きな影響があった本だと思う。今も忘れられない一冊である。
選択できたこと
父とのエピソードにおける大きなポイントは、「自分で選んでよい」という選択権が与えられていたことかと思う。
自分で選んだ本は、面白くても面白くなくても自分の責任で。しかも、返却する図書室の本とは違って、自分の本棚に並ぶわけなので。
本屋さんでの経験によって、自分にとって「面白い」本を選ぶ選択眼が自然と磨かれていたのかもしれないなあ。
息子たちは
ただ、わたしには本好きになるきっかけになったのだが…
息子たちも同じように書店に連れて行ったはずなのに、本よりゲーム好きに育っているため、万人に効く方法ではないこともわかっている…。
「本屋さん」ではなく「書店」だったからかなあ…。でも「本屋さん」は、もううちの近くにはなかった…。
それとも彼らのなかに、本好きになる種を撒くことができているのか?この先、彼らが突然、本を読むひとになるかも…と、楽しみにしておこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?