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ヘンテコな中学生が苦しんだ先生からのことば

ヘンテコなわたしは中学生になった。2年生の7月に引越して、とある横浜の中学校に転入したのだが、2学期の二者面談で担任が母親に告げたことばに相当苦しんだ。それは「お子さん、目立ちすぎなので気をつけてください。」だった。

自分の何が目立ってるのかわからない

まず、目立ちすぎという自覚が自分には全くなかった。何が目立っているのか、全く心当たりがない。今、思えば、それが「ヘンテコ」な証明なのだが、今、思い返しても、担任が何を「目立つ」と判断したのかが、正確には理解できない。

それでも、理由を自分なりに考えた。

そもそも転校生、という存在が目立つ。いや、転入して入ったバレーボール部でレギュラーになってしまったからだろうか。中間テストでちょっとよい点数をとってしまったからだろうか。授業中に挙手するからだろうか。それとも恋愛関係のもつれ…?笑

いや、もつれるも何も、誰とも恋愛してなかったけれど、いま思うと、誰かが好きだった男子がわたしに好意を寄せてたとかあったのかもしれない。知らんけど。

とにかく、目立とうとしているひとに「目立ちすぎだから気をつけなさい」ならわかるけど、目立つつもりもないひとに「気をつけなさい」と言われても、何を気をつけていいかわからない。

つまり、自分は空気が読めていない、ということなんだな…何すればいいかわからないけど、目立っててごめんなさい、と思った。挙手しない、とは決めた。

そもそも、目立つことはいけないことのか

昭和の一般的な価値観に基づくと、目立つことはいけないことなのであろう。出る杭は打たれる、というか、だから、出過ぎるな、というか。昭和のそういう文化のなかで育っていたように思う。

なので、担任はその文化に基づいて、目立っていて反感を買っている女子生徒に、「周りに合わせて目立たないこと」を促したのであろう。

しかしそもそも、目立つことはいけないことなのか。

母に告げることなのだろうか

担任はわたしに直接告げることなく、母に告げた。わたしはその後、担任にこの件について一切何も聞かなかった。だから、彼の真意はわからない。

ただ、教育に携わる立場になった今、彼の指導は適切だったのか、と幾度となく考える。

まず、生徒自身に一切指導していない事がらを、二者面談で保護者に伝えるということに関してだ。そのことでどんな効果が期待できるのだろうか?

男性教諭が中学2年生の女子生徒に直接伝えにくい事がらなのか。それ、自分の仕事を放棄しているのでは?

そしてそもそも、「目立つこと」とは、控えるように忠告するような類いのものなのだろうか、という2点に関してだ。

実は、視線を覚えている

しかし、ひとつ覚えていることがある。ある女子からのあまり心地よくない視線だ。あまりにも印象的すぎて、自分が座っていた座席と、彼女が座っていた座席も覚えている。

転入したわたしは、一番後ろの廊下側から3番目に座っていた。廊下側から4番目の席(つまりわたしのとなりの席)の男子はサッカー部でとても親切だった。

廊下側から2番目の男子(つまりわたしの通路をはさんだとなりの席)もサッカー部で、快活な子だった。私が覚えているのは、そのときいちばん廊下側に座っていた女子の視線だ。

彼女はおそらくわたしをよくにらんでいた。(こわかった)

けれど、気のせいと思うようにしていた。彼女はとある文化部だったのだけれど、担任はその部活の顧問だった。

わたしは小学校のときも父の仕事の関係で転校したことがあり、そこで理不尽なまわりの対応(教科書見せてくれないとか)に遭ったことがあったので、「またか」とも思った。

なので、母に「目立ちすぎだから気をつけるように」と担任から話があった時、ああ、彼女がわたしのことをよく思っていなくて、それを担任に話しているんだろうな、と思った。

おそらく事実は、これなんだと思う。

その先生から学んだこと

もはや、真意もわからないし、その担任はわたしのことや、母に伝えたことすら覚えていないだろう。しかし、わたしは覚えている。

わたしにとっては、本当に困ったできごとだった。担任は信頼できない、と思った。担任が、わたしのことを嫌いなんだろうな、とも思った。目立っちゃってごめんなさい、とも思った。

でも、このときの経験は、先生になってからのわたしにいろいろな示唆を与えてくれた。

1.目立つことについて
目立つことがいけない、という価値観。昭和から平成を経て令和になった今、表立って「いけない」とはいいにくい世の中になっているように感じる。でも実際は、「目立たないように」するのが得策との考えが主流なのではないか。

ただ、この目立つとは、言い換えれば「他のひとと違ったことをしている」ということだ。その違ったことにどんな価値づけをするかで、目立つことに対する評価も変わるだろう。

その目立つ行動が与える影響について、目立つからという理由で排除する必要は感じない。むしろ、異なることを受け入れることが苦手な日本では、必要な影響であるとすら感じる。

そんなことが自分の多様なものの見方を育てる、という実践や研究への原動力になっているかもしれない。

2.指導は保護者にではなくまず本人に
本人ではなく親に伝えることは、果たして指導と言えるのだろうか。

特に今回のように「目立ちすぎだから気をつけろ」なんて。もし生徒との信頼関係を気づいたうえで、というのなら、本人に伝える価値がある場面もあるかもしれないが。

いずれにせよ、「親に告げ口」のような形は、生徒との信頼関係を築く上ではマイナスに働くことが多いのではないか。もちろん、配慮のうえでそれが必要な場合もあることは認識しているし、意図があってそういう形をとることはあるのかもしれないが。

3.ヘンテコが生きやすくなるために
これがいちばん自分に影響を与えていることかと思うが、同調圧力の強い日本の学校で、「一般的」とされることと異なった行動や言動、考え方をする子どもたちは一定数いる。もちろんわたしも、社会的には認識されていなかったとしても、自分自身は生きづらさを抱えている、そんな一人だったと思う。

その「目立った」、あるいは「突飛に見える」行動には、必ずその子なりの理由がある。理由はないけど「なんとなく」と答える場合は言語化できていないだけ、と思っている。

わたしは、その「目立った」「突飛に見える」こどもとの関わりが、わりとスムーズにできる。授業を進める上で、配慮が必要な児童、生徒への対応は、「その行動には理由がある」と考えることで、対応できることが多い。

突飛な行動をする小学生には、周りからの批判を和らげる、あるいは避けるため、「何か、理由があるんだよね。何の理由もなく、こういうことする子じゃないんだよな。」などと本人と周りの児童に聞こえるようにわざとつぶやいたりする。

実際にそうだから。

すると、ヘンテコ本人はちょっと安心するのか、行動が止まったり、落ち着きを取り戻したりすることが多い。これはわたし個人の感覚で、それこそ言語化がまだ十分にできていないのだが。心理的安全性への配慮、なのかもしれない。

ヘンテコな感性は、誇るべき個性だ。だから同調圧力のなかで、その個性を「目立たないように」なんてさせたくない。むしろ、周りの見方さえ整えば、「面白い」とか、何かを生み出す感性がある、という認識にすら変わる。

それができないと、ヘンテコな子どもだったわたしが感じたように、無駄に自己肯定感が下がる。自分の個性は社会には必要ないと思うようになるし、個性を見せることに臆病になる。認めてくれない社会に対して、不信感をもつようになる。

だからわたしは、ちょっと個性のあるヘンテコちゃんやヘンテコくんが、その感性を発揮できるような授業を作っていきたいと思っているのだ。周りの子どもたちのものの見方も合わせて、豊かに鍛えていきたいのだ。素晴らしき、人と異なる感性を埋もれさせたくないのだ。

そんなことを考えて、先生をしているし、これからもしていこうと思ってる。だから今は、ヘンテコな中学生だったわたしに「困る経験」を授けてくれたあのときの担任に、むしろ感謝しかない。



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