イスラエルの教育が平和を作るのだろうか?
平和を作る為の教育が必要
国際協力アドバイザー 佐藤真紀
20年前のパレスチナ
私は、1997年から2002年まで、UNDPとJICAのお金を使って平和教育のプロジェクトを実施していたことがあった。1993年にオスロ合意が作られてから、根本的な問題は先送りにされたとはいえ、好転したものもいろいろあった。日本国際ボランティアセンターは、1992年から西岸で農民支援を行い、オリーブの木を植えていたが、当時は、入植者が襲ってきてはオリーブの木を引き抜いていく。イスラエルは、耕作していない土地は、軍が接収するという勝手な法律を作っては、パレスチナから土地を奪っていたので、オリーブの苗木を植えることは、この土地は渡さない!という抵抗のシンボルでもあった。一度そんなプロジェクトをやってみたいと思い、日本国際ボランティアセンターで働くことになった。
「いや、もうそういう時代じゃないんです。ドナーが環境保護団体だったりすると、評価に来る。植えた苗はどうなったんですか?と聞かれるわけ。入植者がやってきて抜いていきました。一回目はそれは大変でしたねということになる。しかし2回目、3回目になると、どうしてそんな抜かれるところに植えるんです?これじゃいつまでたったても山は緑になりませんよ、危機管理ができてないってことになる。植えても抜かれるんだったら、抜かれないところに植えてください。という話ですよ。でも一般の支援者の人は、土地を守るパレスチナ人のために苗木を買う寄付をしてくれる」
そうこうしているうちに、オスロ合意が成立して、パレスチナ自治警察ができた。入植者たちも変なことしたらパレスチナ警察に撃たれるから苗木を抜きに来なくなった。なので、一度植えれば、もう苗は買わなくてもよくなる。代わりに農道を作ってほしいとかそんな要請が来るようになったという。イスラエル政府が正式にパレスチナを認めたわけだから、日本政府を含めいろんな国がインフラ整備を始めていた。私たちもイスラエルの入国審査で堂々とパレスチナ支援するために来た、と渡航の目的を言っても何ら問題にならなくなっていたのだ。信じられる?でもそんな時代もあったのだ。
「で、これから何をやるんです?」
「それは、あなたが決めて下さい」
「へー,そんないい加減でいいのか?」とも思った。それで、かねてから気になっていた平和教育をいろいろと試してみたかったので、UNDPとJICAに派遣してもらうことになった。実際現地に行くと、オスロ賛成か反対かという議論がいまだにパレスチナの中ではなされていた。オスロ合意から4年近くも立っていたのに。
オスロは根幹的な問題は、何一つ合意せずに先送りにされたと批判はされても、パレスチナという国ができることは誰もが疑わなかった。ただやはり宗教が絡んでくると話は別だろう。ハマスもユダヤ教過激派も現実離れした理想郷を信じている。一方で経済効果は確かなものがあった。イスラエル建国50年が1998年、そして1999年には暫定自治が終り、パレスチナ国家が誕生し、そして、2000年のミリニアムには観光客が押し寄せるという期待感!経済的な繁栄は人々の不満を抑え込む力があるはずだ。
難民問題は、最初から置いておかれたが、西岸とガザのパレスチナ人には、難民か否かにかかわらずに経済的な恩恵は受けることができていた。援助のお金が投入され、信じられる? ガザには、外国人がたむろするカフェがあり、飛行場があってそこから自由に国外に飛ぶことだってだきた。難民であろうがなかろうがパレスチナ自治政府のパスポートを持って。いい時代に違いなかった。
方や、レバノンやシリアなどのパレスチナ難民には、ますます置いておかれていった。
平和教育
国際協力における教育支援は重要で人気がある分野だ。しかしパレスチナでは若干趣が異なっていた。子どもたちの描く絵は、反イスラエル。実に現実が細かく描かれている。それが現実だから憎しみしか生まれない。先生たちは、そういった類の絵を賞賛する。
しかし、インティファーダが終って、ユダヤ人とパレスチナ人が一緒に並んで何かするというのがトレンドになってきていた。それは、ビジネスとまではいわないがお金が付くプロジェクトの一つでもあった。そういうのに簡単についていける子どもたちもいれば、なかなかそうはいかない子もいた。
難民キャンプの子どもたちは、PFLP系とかハマス系とかいろいろ政治色が付いたカルチャーセンターに属しており闘うための教育をうける。
そういう文化をどう壊していくのかがあの頃は、楽しかった。
まあ、大人というのはいやらしく、子どもたちが「いい事」を言うと嬉しくなるし、いい事を言わせようとする。
教えるということは、言わせるということにもなる。
ただ、何が「いい事」かという判断は難しい。いい事=大儀、あるいは正義?
私は、図書館を作ることにした。いろんな本があって、それを自分が選んで読めばいい。私たちにできることはそういう環境を作ること。
砂漠の図書館
例えば、イスラエルとパレスチナの教育の格差。イスラエルは19767年より西岸・ガザを軍事占領してきた。民間人を入植させることは国際法で禁じられているにもかかわらず、ユダヤ人入植地はパレスチナ人から土地を奪い拡大し続け、現在は70万人のイスラエルの民間人が暮らしている。私がいた頃は20万人程度だったのに! パレスチナ自治政府が、入植地の近くに建てた粗末な学校があって、ベドウィンとよばれる遊牧民の子どもたちが通っていたが、イスラエル軍が来て、つぶしていったという事件があった。イスラエルは入植地を拡大するために土地を奪おうとしていた。当時は国際NGOのネットワークでそういった情報が流れてくる。現場を見に行こうという話になり、私も同行した。状況を詳しく聞いてイスラエル政府に抗議する。国際社会が見ているんだという圧力をかけるのである。
イスラエルが保障したかどうかは定かでなかったが、プレハブの粗末な学校は再建された。私たちは、移動図書館を行うことにし、毎週ロバに本を載せて学校に通うことにした。イスラエル軍や、入植者が嫌がらせすれば、すぐに世界中にそのことを知らせてやるぞという圧力をかけるためだ。図書館も実は占領政策に対する抵抗運動だった。もっとも、子どもたちが、普通に勉強し、絵本を読むようにするのが抵抗運動であること自体が異常である。
非暴力
インティファーダは、非暴力の抵抗運動だ。1987年に始まった第一次インティファーダでは、子どもたちが戦車に向かって石を投げた。ラビン国防大臣は、「子どもが石を投げるのなら、腕をへし折れ」と命令した。子どもたちが、戦車に石を投げるのは、武力で闘うとは言えず、国際社会は、非暴力の抵抗運動と位置付けられたが、イスラエル軍は容赦なく子どもたちを捕まえて腕をへし折ったし、発砲し、子どもたちを殺した。国際社会はイスラエルを批難し、ラビンは、和平へ向かわざるを得なくなった。オスロ合意以降も子どもたちは何かあればデモンストレーションに参加して、石を投げた。抵抗運動というよりは、小さな子供たちにとっては、肝試しのようなものにもなっていた。
親たちは、「抵抗運動」は、否定したくなかったが、子どもたちに参加してほしくはなかったのが本音だろう。怪我してほしくなかったし、場合によっては撃たれて死んでしまうのだから。
私は、ある日、難民キャンプのリーダーに「デモに行く子どもたちに、ガンジーのTシャツでも着せて非暴力を訴えたらどうだろうか?石を投げれば発砲する口実ができるが、ガンジーのTシャツを着て非暴力を宣言すれば、イスラエルもなすすべがないのでは?」
「それはいい考えだ」ということで3日後に予定されているデモに向けて50枚のTシャツを発注した。
ガンジー隊を前線に配備してデモ行進を行うという計画だった。しかし、直前になって、リーダーが
「やっぱりやめよう。ハマスがなんか言ってくるかもしれない」
ハマスは、徹底抗戦してイスラエルと闘おうとしている。多くの死者が出ているのに、「復讐をしないのか?戦わないのか?」という風に見られたくないというのだ。
結局Tシャツは我々日本人だけが着た。ハマスを支持する子どもたちは、イスラエルに殺された青年のプリントされたTシャツを着ていた。これも一つの抗議である。
折角作ったガンジーTシャツ50枚は誰も着ることはなく、難民キャンプの倉庫にしまわれてしまった。それから数か月がたち、第2次インティファーダが始まってしまった。私も一時避難せざるを得なく、数か月日本に帰国した。少し状況が落ち着いたのでパレスチナに戻ってみると驚いたことにキャンプの子どもたちが、ガンジーTシャツを着ていた。どうせ、着るものがなくなって、倉庫から勝手に持ってきて来ているんだろう。「どうしたの?そのTシャツ」と聞くと「何言ってんだ、これ、ガンジーだよ、ガンジーしらないのかよ、おっさん」そういうとその子は、ガンジーの絵を描いたと言って見せてくれたのだ。ガンジーの漫画を買ってきて難民キャンプの図書室においておいたのを読んだらしかった。
私は、うれしくなって、ポストカードを作り、ユダヤ人たちが行っている首相官邸前の平和のデモで配った。
核戦争は究極の暴力である
1998年、アメリカがイラクに空爆したことがあった。イラクは核兵器を開発しているという疑惑があり、国連の査察が行われていたが、アメリカがスパイを査察団の中に送り込んでいるとの疑惑が出てきてイラクは査察を拒否した。当時クリントン大統領は不倫がばれて、大変な状態になっていたこともあり、話をそらすかのようにイラクへの空爆を決定したのだった。
湾岸戦争のように、イラクはイスラエルにスカッドミサイルを撃ち込んで、アラブ諸国の連帯を求める手段に出るかもしれないと言われ、私たちにもガスマスクが配給された。
この地域の戦争は、核戦争に発展する可能性がある。
アメリカの武力行使は、中途半端なものになり、その後国連の査察団がイラクに入ることはなくなってしまった。911が起きると、アメリカは、イラクがテロに関与したと思い込み「査察を拒否して核開発を行っているに違いない。」と決めつけて、攻撃に踏み切ったが、911に関与したという証拠も大量破壊兵器も見つからず、むしろ、アメリカの攻撃で多くの市民が殺され、その憎しみが、イスラム国のようなテロ集団を作り出してしまった。
核のない平和な社会を創るためには、武力ではない。核を使ったらどうなるのかを知ってもらい、教育で核兵器を廃絶していく。それは、日本人がやらなければならない使命でもある。
1999年だった。私はエルサレムの近所に住んでいた日本山妙法寺のお坊さんが一生懸命核兵器廃絶を訴えている姿に感銘しボランティアで手伝っていたが、広島から原爆のポスターを貰ったことを機に原爆のことを伝えるイベントを毎年原爆記念日に合わせて行うことになった。はだしのゲン、火垂るの墓、千羽鶴といった映画の上映と、写真パネル展示などだ。いつかは、イスラエル側でやりたいと思っていたが、その夢はかわなかったが、パレスチナは2017年に核兵器禁止条約に署名、翌年には批准した。
イスラエルは、今回のガザ戦争で、「核兵器使用も選択肢だ」と閣僚が発言して物議を醸した。
また日本政府はというと、オブザーバー参加するらも見送り続けるという恥ずかしい態度をとり続ける。パレスチナはスゴイ!
結局、2002年、第2次インティファーダが起きて、私のパレスチナでの活動は終止符を打たざるを得ず、イラク戦争も翌年には始まってしまい、それから私がパレスチナに行くことはなくなってしまった。
なぜイスラエルは、暴力に頼るのか?
イスラエルは、パレスチナ人=テロリストというイメージを固定化し、徹底的な自衛権を主張している。ガザ戦争では3万人以上の死者が出ているが、まるで彼らが全員ハマスの戦闘員のような扱いだ。国際社会は、イスラエルの戦争をジェノサイドだと非難する。安保理でも即時停戦を決議しようとするがアメリカは「イスラエルとともにある」とし、拒否権を使う。さすがに死者が2万人を超えるとバイデン大統領も、「いきすぎだと思う」(2月8日)といい、戦闘の一時停止に向けての努力を続けていることを表明している。
10月7日に、ハマスの襲撃を受け、惨殺されたスラエルは、1200人だといわれ、レイプされたり、斬首されたり、焼き焦がされたと言われている。さらに約240人を人質にとられてしまった。普通なら人質の救出を最優先にして交渉を進めるべきであるがイスラエルは、「ハマスの根絶を目指す」と宣言し続けている。ハマスとしては、自分たちを根絶すると言われれば、人質の解放などに応じるはずがない。
ハマスの襲撃はユダヤ人にとってホロコースト以来の最悪の攻撃だと繰り返し批判し、むしろ、ガザのパレスチナ人を根絶せんとするほどの勢いで攻撃を続けている。ホロコーストを経験した人たちがなぜここまでやろうとするのか。
イスラエルではパレスチナ人がどのように教えられているのか
ユダヤ国家法2018年
ヌリット・エルハナンは、イスラエルの教科書でパレスチナがどのように紹介されているのかを研究している。
イスラエルの教育は、宗教的なバックグラウンドと切り離せない。何千年も前に、アブラハムが、神が約束した土地だから、ユダヤ人がそこに国を作って住む。聖書に書いてあるという。ユダヤ民族のみが繫栄すると彼らは信じている。
1948年、イスラエルが建国されたとき、彼らは、神が与えた土地の47%をアラブ人に譲るという文脈で話をする。しかし、イギリスの委任統治が始まった時は95%以上がアラブ人の土地になっていた。イスラエルが独立を果たし、アラブ人を追い出すことに成功する。パレスチナ難民は70万人といわれており、「大惨事(ナクバ)」と呼ばれているが、イスラエルの教科書にはナクバという言葉はなく、イスラエルが独立しようとしたらアラブが攻め込んだ。戦争に勝利してめでたく国ができたという歴史なのだ。難民にならずとどまったアラブ人はイスラエル人口の20%程だが、彼らはイスラエル国籍を持つことになった。彼らの多くは、アラブ人の学校に通うが、カリキュラムは、イスラエルの物だ。イスラエルは、公用語として、ヘブライ語とアラビア語の2言語を認めていたので、基本アラブ人の通う学校の教科書はアラビア語で書かれていても内容はイスラエルの都合のいいものになりパレスチナ人の存在は無視されている。
イスラエルで開発が進むと、アラブ人達もイスラエルの優れた教育と、技術を身に着けることができ、周辺のアラブ諸国に比べて生活水準も高くなる。パレスチナよりイスラエルというアイデンティティを選ぶ若者たちも増えてきた。アラブ人のドウルーズ教徒は最初からパレスチナの大義からは距離を置いてイスラエルが建国されると徴兵制も受け入れてきた。
「イスラエルの地はユダヤ人の歴史的な故郷であり、そこにイスラエル国家が設立された。」という神話もむきにならずに聞き流すことができるアラブ人が増えてきたのだろう。
例えば、サッカーを例にあげれば、いくつかのクラブでアラブ人の選手もプレーしている。サッカーのプロリーグでは、国籍を問わずいかに強いチームを作るかという共通のコンセンサスがあり、日本でもJリーグで北朝鮮代表の選手が何人かプレーしてきたことを考えれば理解できるだろう。
アッタ・ジャバルのように、アラブ人(パレスチナ人)でありながらイスラエル代表(U21)に選出された選手もいる。
しかし、2018年に、おそるべく「ユダヤ人国家法」たるものが可決されると、アラビア語はもはや公用語から外されてしまった。
基本原則は、以下のようになっており、今までにも増して、シオニズムを正当化する教育がなされることにならざるを得ない。
A.イスラエルの地はユダヤ人の歴史的な故郷であり、そこにイスラエル国家が設立された。
B. イスラエル国はユダヤ民族の本拠地であり、そこで自然的、文化的、宗教的、歴史的な自己決定権を実現する。
C. イスラエル国において民族自決を行使する権利はユダヤ人に固有のものである。
また、入植地にも言及しており「国家は、ユダヤ人入植地の発展を国家的価値観として捉えており、その確立と統合を奨励し促進するよう行動する」とある。置き換えれば、イスラエルの占領と土地収奪がいかに国家的価値であるかを子どもたちに教えていくのが学校教育の役目になって行く。
ユダヤ人の子どもたちは、こういった洗脳教育を受け入れるのはたやすい事だろう。しかし、20%のアラブ人にとっては、もはや居場所はどこにもない。
サッカーの話に戻せば、2021年からは、イスラエルのプロリーグで活躍するアラブ人(国籍はイスラエル)も、パレスチナ代表でプレーする選手も出てきており、イスラエル代表だったアッタ・ジャバルは、イスラエルからパレスチナ代表へと転向し、今回のガザ戦争を受けて、「ハマス支持者である」として国籍をはく奪すべきであるという批判をうけている。
ヌリット・ペレド・エルハナン教授はテルアビブ大学で言語教育を研究している。詩人であり平和活動家でもある。
1997年、私が初めてパレスチナで暮らし始めた時、立て続けにハマスの自爆テロがあった。その一つが、ベン・イヤフダ通りのカフェで起きたもので、現場を通りかかると、イスラエル警察が壁にへばりついた肉片を、DNA鑑定か何かに使うのだろう、ピンセットで採取していた。そのわきで、ユダヤ人たちが大声で論争をしていた。
その時に亡くなった13歳の少女が、サマドールでヌリットの娘だった。当時の新聞から抜粋したものを「いのちってなんだろう」コモンズに書いたことがあったのを思い出した。
ヌリットは、「私はテロリストを憎むことはしません。イスラエルの政策がテロを生んでいるのです。娘はそうしたイスラエルの政策の犠牲者です。構造的にこの問題に取り組むべきです」語っていた。そして、平和のためのイスラエル・パレスチナ遺族会の会員としても、復讐ではなく、構造を変えていく活動を広めている。
ヌリットの父はマティ・ペレド将軍
イスラエルの独立戦争を戦い、1967年の第三次中東戦争では、先制攻撃を進言した立役者である。いわば、パレスチナ問題の根源を作り出した人物である。確かにパレスチナ問題さかのぼれば、イギリスの3枚舌外交あたりから始めるのが妥当なのだろうが、もはや、イスラエルの問題は、占領だとしたら、このペレド将軍の功罪は大きい。しかしタカ派の軍人は、西岸ガザへの侵攻は、軍事的脅威に対抗するための純粋な軍事作戦として考えいた。イスラエルが占領した領土をその後何十年も占領し続けることや、併合・占領を目的とした入植地を設立することになるとは全く考えていなかった、と繰り返し、占領政策に激しく反対し、極左といわれるまでの平和活動家、政治家に代わっていた。アラビア語も学びヘブライ大学にアラブ文学科を創設したのも彼の偉業である。PLOとの対話もオスロ以前から言い続けていた。
ヌリットは言う
「学校の教科書は、イスラエルのパレスチナ領土占領政策を実施するために18歳で軍隊に入隊する少年を対象としている」つまり、軍隊に行かないという価値観は教育からは生まれてこないということである。
イスラエルの優れた教育
イスラエルの教育は、充実している。各業界で天才的な人物を送り込んでいる。ユダヤの血なのか養育なのか?最近では、イスラエルの「スタートアップ企業」に注目が集まる。日本の未来が暗いのとは大違いである。
最近、話題になっているのが STEAMと呼ばれるシステム.
パッと見た感じ、従来の工業学校にITとARTを加えておしゃれに仕上げているようなシステムなのだろうか?義務教育の中でも取り入れられているというが、面白いのは軍隊が教育システムとして重要な位置を占めている事。男子で3年、女子は2年間軍に入隊する。この間が学力の空白にならないように、教育プログラムと、設備が備わっており、優秀な生徒は、高校の時から兵役前に大学で専門的な授業を受けることができるらしい(Atuda)軍に入隊したら機密の研究に携わり、兵役を終えてそのまま研究を続けるケース、大学へ行ってさらに専門性を高めるケースなどがあるそうだが、そのような優秀な人間がその後どんどん起業していく。政府も、積極的に融資してくれるらしい。
*タルピオットという軍のエリート教育システムの詳しい記事はこちら➡
ここまでくれば、軍に行かないという選択肢はない。
そしてこのような、イノベーションは世界からも注目を浴びている。アマゾン・ドット・コム、アップル、フェイスブック、サムスン電子・・・・・・。現在では300社以上のグローバル企業がイスラエルに研究開発拠点を設置しているという。日本経済もイスラエルと組んで利益を得ようとしている。日本は、かつてのような技術大国ではなくなっている。カメラも今ではスマホに持っていかれ、肝心のスマホは完全においておかれている。自動車も、EVの開発は遅れている。日本の若者達が未来に希望を持てるのはイスラエルのようなやり方だ。
しかし、裏返せば、軍は先ず、「敵」を殺すという教育をする場所、そして、先端技術の研究開発は、「敵」から守るものならまだしも、あるいは「敵」をいかに効率よく大量に殺すための技術を研究するわけである。手放しに賞賛できるわけではないはずだ。
オルタナティブな教育としてのNGO
イスラエルの学校と軍隊では教えてくれないもの。それはパレスチナ人の人権。そもそもパレスチナ人などは存在しないことになっているのだから。
NGOの活動がとても重要である。T2Peace という団体は、STEAMを取り入れた職業訓練を学ぶのだが、イスラエルとパレスチナの人たちがともに起業できるような枠組みを作り、平和に向けたダイアログも取り入れている。イスラエルの公的教育の目的である占領政策を実行するための人材及び技術の習得とは真逆のゴールを設定している。
また、人権に関しては、B’Tselem のようにイスラエルが立ち上げた団体が、イスラエル政府の人権抑圧のファクトを公表している。最近NHKのニュースでも取り上げたが、B’Tselemの映像は、ユダヤ人入植者がパレスチナ人の民家を襲ってくる有様は、ハマスの襲撃にも匹敵する恐怖をパレスチナ人に与えている。今に始まったことではなく、こういった過激なユダヤ人テロリストは、オスロ合意直後の1994年2月25日、イスラエル占領下のヘブロンのイブラヒムモスクで乱射事件を起こし、お祈り中の29人のイスラム教徒を殺害、125人を負傷させたバールーフ・ゴールドシュテインが有名である。
「ユダヤ人の殺人者は、殺人者でしかない。ユダヤ人のナチだ。いや、ユダヤ人ではない、ナチだ」
シモンペレス外務大臣は激高して国会で訴えた。そして、ラビン首相も1995年、ユダヤ人テロリストに射殺され、オスロ合意は完全に墓場へと葬り去られた。誰が犯しても、人権侵害は罰せられなければならない。ダブル・スタンダードなどあってはいけない。人権団体が発表するファクトシートは重要だ。
徴兵を拒否する
軍隊はイスラエル人にとってまさにナショナリズムのアイデンティを確立するところだ。さらに技術も身につき、一人前の大人として認められる。一方で、果たしてイスラエルがやっている事が正しいのか?石を投げてくる子どもを射殺していいのか?特に今回のガザ戦争でジェノサイドが正しいのか疑問に思う人たちも少なからずいる。そこで軍に行くのを拒否する若者たちもいる。
イスラエルの法律では、良心的兵役拒否が認められている。しかし、審査で認められることは先ずはないらしく、必ず刑務所に収監される。最初は10日、そして態度を改めないと何日も伸びていく。
Mesarvot は、徴兵を拒否した若者を応援するネットワークだ。
ここで映画を紹介しよう
高校生のアタルヤが、西岸でイスラエル軍がやっていることを実際に見に行く、そして兵役につくかどうかを悩む。アタルヤの家族は反対だ。おじいさんは、ホロコーストを引き合いに出して、軍がなくなったらユダヤ人は焼かれてしまうという。「社会を変えたいのなら まず、軍隊がどいうところかを見た方がいい」という。拒否する事で失う友人や将来。代償はあまりに大きい。高校生が自分の運命を決めなければならない。アタルヤは徴兵を拒否して110日間刑務所に入れられた。この映画は、2019年のもので、今イスラエルがガザでこなっていることを見たら、もっと多くの高校生が徴兵を拒否してもよさそうだ。しかし現実は、まだ数人しかいない。おそらく当局が公表しないから実際はもう少しおおいいのかもしれないが。なおさら、彼らの勇気は賞賛に値する。
https://www.youtube.com/watch?v=GpdKhsUZow4
「徴兵拒否」
2019年製作/イスラエル/作品時間75分
イスラエルでは徴兵制が敷かれている。兵役はユダヤ人市民の義務となっており、心身に問題がある場合など一部の例外を除き、18歳になった段階で男女とも2、3年前後にわたって軍務に服する。しかし、軍人一家に育った女子高校生のアタルヤは、家族の反対を押し切って、兵役拒否を宣言する。なぜなら、彼女はイスラエル軍が行っているパレスチナ占領に強い疑問を抱き、それに反対しているからだ。兵役拒否は、イスラエル社会では裏切り者とみなされ、社会で異端視される。果たしてアタルヤは、自らの信念を貫けるのか…。イスラエル軍によるパレスチナ占領に異を唱えるアタルヤと若者たちの活動を記録したドキュメンタリー映画。
監督:モーリー・スチュアート
アタルヤの家族が、「社会を変えたいなら軍隊を経験して、中から変えるという選択肢もあるのでは」と進言する。たとえば、退役軍人たちが行っている平和運動が、「沈黙を破る」だ。
「沈黙を破る」は、第二次インティファーダの開始以来イスラエル軍に勤務し、占領地域での日常生活の現実を国民に公開することに自らの使命を果たした退役軍人の組織です。私たちは、若い兵士たちが日常的に一般市民と対峙し、一般市民の日常生活の管理に従事しているという現実に対して支払われる代償について、国民の議論を刺激するよう努めています。私たちの活動は占領を終わらせることを目的としています。
彼らが抱く良心の呵責。決して少数であってはいけないはずだ。私たちも破られた沈黙にしっかりと耳を傾ける必要があるだろう。
戦争で家族を失った憎しみは、復讐を生む。また戦争へ向かう世論形成として重要なのは、家族が復讐を願っているということである。しかし、復讐の対象はどこへ向かうのか?今回のガザ戦争でも、ガザで殺されているのは、多くは全く罪のない一般市民である。バイデン大統領も警告している「しかし私は警告する。怒りを感じても、それにのみ込まれてはいけない。9・11の後、我々は激高した。正義を求めて、それを実現した。だが同時に過ちも犯したのだ」「イスラエル政府が激しい怒りのあまり分別を失うことのないよう警告する」と。
イスラエル、パレスチナ双方で家族を失った人たちが、気持ちを共有し、これ以上の犠牲者が出ないように活動しているNGOがある。ヌリット教授もメンバーである平和のためのイスラエル・パレスチナ遺族会の会(PCFF) 。
PCFFは、 1995 年に設立され、ガザ地区のパレスチナ人遺族とイスラエル人の家族との最初の会合は1998年に行われた。現在は600 を超える家族で構成されるイスラエルとパレスチナの共同組織であり、その全員が現在進行中の紛争で肉親を亡くしている。PCFFは、国家間の和解プロセスが持続可能な平和を達成するための前提条件であると結論付け、占領政策に反対している。したがって、この組織は、教育、公開集会、メディアなどで利用可能なあらゆるリソースを活用して、これらのアイデアを広めている。
前述のヌリット教授は、ガザ戦争後のインタビューで、これからイスラエルがどうなるのかと聞かれ、「新しい世界を作っていくためには、意味のないもの、正しくないものを拒否する事、このことを私たちは子供たちに教えていかなければいけない。」と語っている。
この様に、イスラエルの中にも勇気ある良心が存在する。私たちは彼らが孤立しない様に応援することが唯一戦争を終わらせる道だ。
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