パレスチナのサッカー協会の歴史
まもなく始まるアジア杯。戦火が続くパレスチナからも選手が参加する。サッカーなんてこのご時世にどうなんだと疑問に思われるかもしれないが、パレスチナ人にとっては国際社会の中で自分他の尊厳のある存在を焼き付けるチャンスでもある。
そもそも、国際社会は、イスラエルとのビジネスが盛んでパレスチナのことなど忘れ去ろうとしていた。サウジがイスラエルと国交を持てば本当にパレスチナのことなど誰も気にしなくなっていたかもしれない。そんな矢先に起きた”ガザ戦争”だった。必死の思いで試合に臨むパレスチナを応援しようじゃないか。いつかパレスチナが、”国家”として参加する日を夢見て。
最近パレスチナの旗とかカフィーヤをつけているとあたかもハマス支持者のような扱いを受けるという。ヨーロッパやアメリカでは、デモでそういったパレスチナに連帯を示すものを身に着けていると東京の取り締まりの対象になるとか。イスラエルに批判的というか不都合なことを少しでもSNSに投稿しようものなら、イスラエル人や、シオニズムを支持する人たちから、ハマスを支持するのかと言われる。そのうちアカウントが乗っ取られるのではないかとついつい恐れてしまう。日本人の中には、イスラエルを支持しなくても中立を美徳とする人たちもいて、なかなかイスラエルの過激な行動さえも批判しにくい雰囲気も感じる。私のスタンスは、良きも悪しきも、中立でしかありえない。どちら側に立って命を懸けて戦うわけではなく、しょせん無責任な傍観者でしかないということ。どうせ傍観者なら少しでも、対立をあおるのではなくて、平和に向けて ”役に立ちたい”という潜在的な気持ちはある。
アジアカップでは、大手をふってパレスチナを応援できる。旗をふるもFIFAとしては全く問題がない!
パレスチナサッカー協会はユダヤ人だけの協会だった
私は、イラクのサッカーチームをずーっと応援しているので、パレスチナのことはほとんど知らなかったのでいろいろ調べてみることにした。
まず歴史から。
そもそもサッカーはイングランドが発祥と言われており、国際的なスポーツとして注目を集めるのは1900年のパリオリンピックで競技として登場。1904には、FIFA が設立され1930年に最初のワールドカップが行われた。
パレスチナ地方には、オスマン帝国のに、ミッション系の学校が中心になり広まっていったと思われる。しかし、移民してきたシオニストユダヤ人たちは、サッカーもシオニズムの高揚として利用した。1912年には、少数のユダヤ人たちがシオニスト・スポーツ組織を設立しており、彼らが主導して、1928イギリス委任統治下でパレスチナサッカー協会(PFA)が1928年8月に設立され、 1929年6月にFIFAに加盟したが、当時この協会はアラブ系クラブ、ユダヤ系クラブ、英国委任統治時代にこの地域で勤務していた英国の警察官や兵士を代表するクラブで構成されていた。しかし、FIFAの規則の下では、協会は国の全住民を代表する必要があったため(当時のユダヤ人は総人口の約12%にすぎなかった)、第1回会合では1人のアラブ人代表が15人からなる理事に加わった。パレスチナ総人口の75%以上を占めるアラブ系クラブは協会や国内スポーツの運営に関して発言権を持たなくなった。
委任統治領パレスチナ代表チームは、 1934年のFIFAワールドカップ予選でカイロ(エジプト)と対戦し、エジプトのカイロで0対5で敗れる。代表チームはイギリスの委任統治が終了する1948年まで、パレスチナが1対5で勝利したレバノンとの親善試合を含む5つの国際試合を行った。この5試合中、代表チームにはユダヤ人選手のみが出場した。各試合の前には、 3 つの国歌が演奏された。イギリスの「God Save the King」、将来のイスラエル国歌となる「HaTikvah」、そして相手チームの国歌である。一方、アラブのクラブはパレスチナ総合スポーツ協会(Arab Palestinian Sports Federation以下APSF)として知られるライバル団体を設立するが、1936年に、対イギリス抵抗運動が激化し、イギリス政府から弾圧を受ける。この間は、一部のアラブクラブが、PFAのリーグに参加し好成績をあげている。第二次世界大戦中には、イギリスを支援するためのチャリティ試合も行われたようだ。シオニストは、よりイギリスのとの関係を強化するためにサッカーを利用した。1944年には、APSFが再開された。21のクラブが加盟。2年後には65チームが参加し、FIFAへの加盟を目指し交渉が始まった。1946年には、FIFAの加盟申請をするも、すでに委任統治領パレスチナサッカー協会が加盟していることを理由に、FIFAは申請を認めなかった。一方委任統治領パレスチナサッカー協会もその正統性を疑問視され、シオニストの理事たちは、アラブのクラブへ協会への加盟を打診するが、アラブ側は申し出を断った。一年後には、FIFAが、妥協案としてユダヤでもなくアラブでもない中立的な組織を作ることを提案するが、そのまま第一次中東戦争に流れてしまい、イスラエルが独立すると、委任統治領パレスチナサッカー協会は、イスラエル・サッカー協会に名前を変えた。
1939年のオーストラリアとの親善試合 胸にはダビデの星がついている
https://www.rsssf.org/tablesp/pales-intres-det.html
アジアから追い出されたイスラエル
イスラエルは、1954年から1974年は、アジアフットボール連盟に加盟。アラブ諸国やイスラムの国からは、試合をボイコットされることも多かった。そのおかげで1970年にはワールドカップメキシコ大会に出場できた。第4次中東戦争を機にイスラエルはアジア・フットボール連盟を除名され、その後は、ヨーロッパサッカー連盟に加盟することになる。
パレスチナ代表チームができる。
一方パレスチナは、アラブ諸国を除けば、国際試合をするチャンスもなく、表舞台に出ることはなかったが、1962年にパレスチナサッカー協会が設立。ウエストバンクは、1967年まではヨルダンが統治していたので、その当時は、ヨルダンのリーグに参加していたのかは定かではないが、オスロ合意後1998年に、初めてFIFAに加盟することができた。つまりは初めてパレスチナを代表するチームができたのである。
初代監督は、アルゼンチン人、リカルド・カルガティ氏だった。彼は1997年2月にガザでのスポーツ活動を発展させる国連ホワイトヘルメット・イニシアチブ・(国連ボランティア)の一環としてパレスチナに到着しガザの難民キャンプを回ったりして若者たちを指導していた。1997年6月には、新しくエリコに作られたスタジアムのこけら落としで、パレスチナ代表チームが初めて国際親善試合でヨルダンを迎え撃つことになり、リカルドがナショナルチームの初代監督を務めることになったのだ。
「忘れられない思い出は、日本政府の支援で作られたエリコ・スタジアムの開幕試合さ。20,000人以上が詰めかけた。みんな パレスチナ!パレスチナ!って叫んでいた。アラファトも会場に来て、目には涙があふれていたんだ!僕は、多くの人に助けてもらったし、パレスチナ人からは本当に素晴らしいホスピタリティを受けたよ。僕はここにいることが大好きなんだ!」UNV News より
私は同じ年の8月に、国連ボランティアとしてエルサレムに赴任し、同僚にアルゼンチンのサッカー監督がいる!と聞いてびっくりした。ギャラのこととが気になってしまった。詳しいことはわからないが、幼い娘を失ったばかりで新境地を求めていたのかもしれない。ガザで会議が会った時に何度かお会いしたことがあった。リカルドは、とても紳士的な人で、私が日本人だと知ると、会うたびに、「エリコにスタジアムを作ってくれてありがとう」と言っていた。
オスロ合意の肝心なところは先送りされていたのでいろいろ問題もあったが、第一歩を確実に踏み出しているのも事実だった。
リカルドはプロジェクトの終了とともに、ヨルダンの代表の監督を務めていたが、FIFAの会議でオーストリアを訪問していた時に心臓発作で亡くなったという。2001年2月
サッカーは中東においては特別なスポーツである。もしも、委任統治領パレスチナでユダヤ人とパレスチナ人の民主的な国ができていたら、まさにパレスチナは中東屈指のチームになっていたかもしれない。今のガザをリカルドが見たらどのような気持ちだろうか?厳しい状況でも試合に臨むパレスチナ代表を応援しよう!
https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/palestinian-soccer/
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