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見ているようで見ていない。

先日の旅の帰り、みんなと別れた後で盛大な乗り間違いをしてしまった。
相当ひどい間違いだった割に、その後予定があったわけでもなく困るのは自分だけなので(心配させてはいたけど)、意外と落ち着いて対応した気がする。
というか、間違いがひどすぎて慌てても無駄だしそんな余裕がなかったかもしれない。

その後、間違えたときの状況をふりかえってみたら、ほんと、見たいところだけフォーカスして見ているんだなぁと思っておもしろかった。
見えているのに見ていない。

乗り間違いをしたあと、降りてまた乗った駅まで戻ったんだけど、そこでまた乗り間違いしそうになった。
そのときに気づいたんだけど、自分の視覚に入っている情報の中で、その瞬間確認したいところしか見ていない。

ふたたび乗り間違いしそうになったのは、ホームを間違えたのだった。
電光掲示板で、乗る電車のホームがどこなのか確ているのだけど、何番ホーム、って確認しておいて、そのホーム番号でなく表示している掲示板の方向に歩いてるわけ。
で、掲示板とおりすぎてエスカレーターにきたら、エスカレーターのところにホーム番号が書いてあるはずなのに、それを見ていない。
あとで思い出した記憶では、なんとなくホーム番号が視界に入ってたのを思い出せるのに、掲示板の下が同じホーム番号と信じているから脳に入ってない。

ホームにあがったら、乗る電車に間に合っているか、ホームのどっち側にくるのかを、発車時刻見て確認している。
また乗り間違いしそうになってたと気づいたのは、発車時刻が違ったからだった。
(あと、風景全体の感じが、間違えたときと同じだったから。)
発車時刻見るときには、電車の行き先とかホーム番号とか一緒に書いてあるのが見えてるはずなのに、時刻部分しか見ていない。
あとで思い出したのは、その後ろにホーム番号書いてある標識が下がっていたのだけど、それも見えてたはずなのに目が素通りしている。

地図もよく見間違えて逆方向行ったりしてしまうのだけど、最近気づいたのは、上が北だと信じて見ているわけ。
上が北でないときには、北のマークが書いてあるはずなのに、それは見えてない。

駅から出て左、みたいな地図があったら、それは西に進んでいるのだと思ってしまっている気がする。
まず駅から出たときとかに、左が西で上(前)が北だと思ってしまう癖がある気がする。

京都ではほぼ迷わないのは、慣れてるのと碁盤目だからだと思っていたけど、上ル下ル西入ル東入ルが自分の感覚と合ってて見やすいからなのかも。

あまりにも見ようとしたところしか見てなくて、記憶再生すると視野には入ってるのにそれでも見えてないのがおもしろかった。
人は見たいようにしか見てない、というけど、都合がよいように解釈するだけでなく、見たいところだけしか情報処理してないんだなぁと実感したのでした。
というのを反省してちょっと意識してまわりを見ようと思う。

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