願いごとはなんだろう?
今年の抱負とか、願いごととか、そんなお題や記事を見て考えてみたのだけど、考えているうちに、それがほんとにやりたいことなのか?と思ってしまった。
たとえば、リアルでグラレコやグラファシしたいとか、仕事としてグラレコ&グラファシたくさんしたい、って思うんだけど。
それはほんとにグラレコ&グラファシでないといけないのか?って思う。
やってて楽しくて、やっててつかれなくてどんどんやれて、充実感もあって、それが仕事になる、っていうようなものが、私が今できるのはグラレコ&グラファシなだけで、同じようなことができるならほかの何かでもいいのかもしれない。
たとえば、あちこちいろんなところに行って仕事したい、と思ったりするけど。
現状で現実的なのが、仕事をしながらあちこちに行くとか、仕事でいろんなところに行くとかっていうだけで、行きたいところに自由に行って合間に仕事するくらいで暮らせるなら、それがいいような気もする。
そんな風に、抱負とか願いごととかっていって思い浮かべるものって、別にほかのことでも叶えられることだったりしない?
替えがきくものは、それはほんとの願いじゃないんじゃない?
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そう思って考えてみたら、だったら何がほんとに叶えたい願いなんだろう?ってわからなくなってきた。
最近ずっと、いやなものを避けるとか違和感を減らすとかに気が向いていて、どうしたいかどうなりたいかとかをちゃんと考えてなかったし。
そもそも、どうしたいとかどうなりたいとか、ふんわりあいまいにしかわからないんだよな。
具体的に何かと、考えて決めることはできるけど、それはなんか本質的ではなく、とりあえず今思いつくだけの表面的なものの気がしてしっくりこない。
どんな風にいたいか、つきつめてみたら結局は、自由におもしろく嬉しい日々がすごせたらいいだけで、何をするかどこに行くかとかってただの手段でしかない気がする。
その手段がないと叶えられないから、手段を思い描くのは必要だと思うけど、今考えていること、今できそうなことにとらわれなくていいのかもと思う。
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もちろん、ほかには替えられない、たったひとつのものを手に入れるとか、そこでしかできないこととか、そういうものもあるだろうから、だいたい替えがきくものだとまでは思わないけど。
でも、今思い描いている抱負とか願いごとが、ほんとに1番叶えたいことなのか、その先にほんとの願いがないかっていうのは考えてみてもいいと思う。
見る先が変わったら、視点も変わったりするし、今思いついているのとは違う手段や通過点が見えるかもしれない。
そしたらやることややりたいことが変わるかもしれない。
だから、せっかく何かを願うなら、抱負として宣言するなら、ほんとに願ってるのはなんなのかを描いてみるといいよね。
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