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任せるなら結果も引き受ける。

仕事で、任せっぱなしにしていてトラブルになった件について、責めるように確認していた人がいた。

責めてるつもりはないのかもしれないけど、いつ何をしたのか、それはなぜなのか、どこにミスがあったのか、なぜ防げなかったのか、すごく細かく問い詰めていて。
聞かれている側は、詰問されているような責められているような感じだっただろうと思う。
うまくいかなかった点について指摘して改善を依頼するのはわかるのだけど、もっとよい関わり方があるのではないかと思ってしまった。

任せていたのだから、ちゃんとやってくれると信じていたのだから、できていないのはなぜなのだ?と思ったり、できていないのは相手のせいなのだと思うのかもしれない。
でも、その人自身ももっと関わることができたはずで、そうしたらもっとはやく問題を解決できたり防げたりしたかもしれないとも思う。
(その人だけでなく、私自身ももっと確認とかできたはずと思っている。)

状況チェックするなり内容詳細随時確認するなり、もっと何かができたかもしれないという状況で、相手に任せるという選択をしたのは自分なのだ。
だったら、相手に任せるって決めた結果も、自分で引き受けるものじゃない?

もちろん、仕事上のことって、どこまでが自分の範囲でどこからが相手の範囲とかある程度決まっているものだし、相手の領域にまで踏み込むのは違うと思うけど。
任せておいて管理するのが自分の仕事であれば、どれだけ任せて大丈夫かどれくらい介入したり管理したりするか見極めるのも自分の範囲だと思うのだ。

それと、結果が出てから、それを知ってふりかえって詳細確認するというのと、その対応のまっただなかで何をすべきか考えているときというのは、見えるものが違ってくるのではないかと思う。

よくなかったという事実をもとに、何がよくないか、もっと改善できないかという視点で探すから見つかる部分があるだろう。
それは渦中にいるときには見えない可能性がある。担当だから自分のやってることだから見えづらいだけでなく、確認する立場でも見えているかわからない。

ふりかえって見えてくるものが、当時から見えるものだと限らないのに、見逃しているミスしていると決めつけるのもどうかなと思ったりする。
(もちろん見逃したりミスしたり当時でも対応できることが見つかったりもするので、ふりかえって確認すること自体はいいと思うけど。)

ふりかえりは必要だけど、第三者からとか現在から過去を見てとかでなくて、当事者が当時のことを思い出して確認したほうがいいのになと思うのだ。

ちょっと話しずれたけど。

自分が人に任せるとか、管理だけするときとかは、任せっぱなしにするなら自分の思いどおりにならなくてもその結果のまま引き受けるつもりでやる。
確認して想定どおりにさせることまでを依頼されていたら確認して口出すかなと思うけど。
基本任せるって決めたらそんなに口出ししようとしない。

自分が任せるって言われたときに、あれこれチェックされたり口出しされたら、任せられてないじゃんって思うし。
そしたらやる気なくなったりするし、信頼されてないなって思うから。

任せるなら任せて手放して、信じて見守れるのがいいなと思うのだ。

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