見出し画像

「いやだ」って思っていい。

子供の頃からの、自分では言われたとおりにやってるだけなのに、怒られたりたしなめられたり困らせたりする、というのをずっと根に持っている。
私は普通にしてるだけなのに!と思うし、だめと思われることをやらないように気をつけてたらできなくなったじゃん!とも思う。

でも、その割に、そのことについて怒ったことがなかったと思う。
どうしたらいいのか?という疑問が先ですが、怒りという感情につながらなかった気がする。

普通に言われたとおりにしているのに怒ったり困ったりされると、まず自分の中に起こるのは「困惑」だったと思う。
特に小さい頃だと何が問題とされているのかがわからなくて、何かよくなかったんだとだけ理解する。

「私はこれがよくないことだと学習した」
「対応を考えた(つもりでいた)」
「とりあえずまわりに合わせてたらなんとかなる」もしくは「言うこと聞くしかない」

自分としては悪いことしたつもりもないのに、直さないといけない気分になった。
傷ついたとか、いやだとか、思う余地がなかった。

ゲシュタルトワークショップで、私がワークをする前に受けていた方が、子供の頃にいやだったことの話をして、「いやだった」「いやだ!!」って心から叫んでいて。

それを見て聞いていて、「私もその年齢の頃にいやなことあったなぁ」と思い出していて。
「でも、私の場合、いや!というのとは違ったのかも」「どんな感覚だったっけ?」と思ったのだった。
よくよく考えても出てこなくて、多分それは感覚を言葉にできなかったからではないかと思う。

実際、たとえば記憶にある中でいやだったこととして、幼稚園に入ったばかりくらいのときに、絵の具を手にべたっとつけて手形とるのがあった。
あとから思えば、手に何かつけるのとかべたべたしてめちゃくちゃいやなので、いやだったと思う。居残りさせられて、親がきたときに親が見てる前で、無理矢理のようにえいってべたべたつけさせられたのもいやだったと思う。
けど、「いやだ」と思った記憶ではなく、感情がわからないままにシーンとして記憶されているだけだ。

だけど、よくわからないと思っていて、その浮かぶシーンから「困った」感覚が近いかもとも思うのに、ほかの方のワークを見ていたら、「いやだったのかも」と思ったのだった。
それで、自分のワークのときにそれを「いやだった」と話せたのだの思う。

それも、感覚が覚えてない未完了なものだったのを、いやだったと思い出すことで、完了にしたのかもしれない。

小さい頃のその記憶が、ほんとに「いやだ」とわからなかったのか、忘れてたのかはわからないのだけど、ほかの人の「いやだ」によってひっぱり出してもらえたように思う。

ほかのことでも、淡々とした記憶だけどいやだと思っていいはずのものとか、いやな記憶として持っているけどもっといやだと思っていいはずとおもうものがあって。
一度ちゃんと「いやだ」と思った方がいいのかもしれない。

「いやだ」に限らず、強い感情とかをあまり感じないようにすることで、自分を守ったりもしているのだろうけど。
そうすると未完了で残っていくのだろう。

過去のことだけでなく今のことも、ちゃんと「いやだ」と思って、思いっきりいやさを体感していきたいと思う。

ライティング・ライフ・プロジェクト2023年11月期募集準備中です。
お問い合わせなどはこちらからどうぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?