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やりたいことは「見つける」ものじゃない。

やりたいことがやれるのがいいよね、っていう風潮にはおおむね賛成なのだけど。
「やりたいことの見つけ方」だとか「やりがいをつくる」とか「夢を設定する」みたいなのはなんだかなぁと思ってしまう。

やりたいこととかって、わざわざ見つけたり探したりつくったりするものではなくない?と思って。
自然にやりたくなったり、何かしてるうちにやりがいを感じていたり、いつのまにか夢や理想としてイメージしてたりするものじゃない?

やりたいことがあったり、やりたいことをやってたりする人を見て、楽しそうだったりしていいなと思うとかはわかるし、そういう風になりたいとかいうのはわからなくないけど。
やりたいことがあるのがいいよ、って誘導するようなことして、やりたいことを見つけさせる、みたいなことには違和感を覚える。
人事とか講師側の価値観の押しつけとか、都合のよい理論みたいに感じてしまう。 

でもよく考えると、大人になってからだけではなくて、子供の頃から誘導されていると思う。
将来の夢を描くのとか。いまいちやりたいことも具体的にイメージできなくても、授業だから課題だから何か夢ということにして書かないといけない。
子供の頃からの夢を実現させたり、やりたいことをやれている人とかが、サクセスストーリーとして語られたりもする。

そうやって、夢を持ってるとかやりたいことがあるとかそれを実現できるのとかがいいとかって、思うようにされているのかなとも思う。



夢を持ってても持たなくても、やりたいことがあってもなくても、それでいいと思うし、それぞれのよさがあるだろうと思う。
特に夢とかやりたいこととかがないなら、今満足なのかもしれないし、やりたいことができてるのかもしれないし。夢とかやりたいことがあってそれに向かっていたりするのは楽しかったり充実したりしそうだし。

だから、やりたいことを見つけないと、とか、夢を持たないと、とか思わされてわざわざ探す必要はないと思う。

でも一方で、わかりやすい、憧れとか目標とかにされやすい、ほかの人の夢とかやりたいことなどを見て、安易にそんな感じのわかりやすいものを、自分の夢ややりたいことのように勘違いしたりもしやすいと思って。
それなら、実際自分は何がやりたいことなのかどんな夢や理想を持ってるのかを、じっくり考えてみてもいいとも思う。

それは、何かを見つけにいくとかつくるとかいうのではなくて、すでにあるものを確認するとか掘り出すようなことなのだと思うし、人のものを見てまねするようなものでなく、自分がこれまでにやってきたり感じたり考えたりした中にあるのだと思う。

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