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きれいなものを見ようとしたらきれいな世界になっていく。

きれいな写真とかかわいい絵とかが好き。

なので、TwitterやInstagramなどでもちょこちょこフォローしては見ているのだけど、好きなものを見てるとどんどんおすすめされて好みのものがフィードに増えていく。
特にTwitterはフォローしてないものでもどんどん好みに近いものがあがってくるので、目に入るのが写真とかイラストだらけになったりする。
もちろんそれ以外の内容のものや知り合いのもフォローしているのだけど、それらがほぼ目に入らないくらいに。

特に、つかれているときは、あまり文章読みたい感じでもないし、目に入った写真やイラストに飛びつきやすいのかもしれない。
特に意図もなくなんとなくながめているときほど、たくさん好みの写真やイラストがはいってくるようになっている気がする。

SNSのアルゴリズムとして、好みのものや興味があるものを見ることで、その類似のものが流れやすくなり、より好みのものや興味のあるものを見るようになる。

それはそういうしくみなのだとわかっているけども、それでもやはり好みのものがたくさんある世界というのはやさしい。
それがほんとに「やさしい」というものなのか、というのはおいといて。
好きなものばかりの世界は、目にやさしく、心にやさしい。
安心して見れて、心乱されずにそこにいられる。

見たいものが見れて、見たくないものは目に入らない世界というのは、「正しい」わけではないし、成長できないとは思うのだけど、必要でもあると思う。
自分がそんな安心な世界にとどまりたいときは、それを自覚しつつそこで休めたらいいと思う。

オンラインでは、見たいように見る、見たくないものは見ない、っていうのがやりやすくて、むしろ意識しなくてもそうなってしまう。

だけどリアルの世界だって、実際はそんなに変わらないと思う。
好みかどうか興味あるかどうかに関わらず、目に入ってしまう、耳にはいってしまうというのはあるのだけど、どう受け取るかは個人の自由だ。
自由だとも認識せずに、勝手に思うように受け取って思うような世界を見ている。

どんなできごとでもいろんな側面があって、どこを見るのか、どこを切り取るのか、どんな風に解釈するのかで見え方が違う。
自分が見たいように見る、というのは、よくないことだとわかっているけど、見たいように見るだけでは、全体が見えないし相手が見れないとわかっているけど、それとは別の次元で、見たいように見てもよくない?とも思う。

見たいところを見て、切り取りたいように切り取って、解釈したいように解釈して。
それは虚構の世界なのだろうし、現実逃避なのかもしれないけど、自分ひとりでいるときには、自分が見たい自分のフィルターとおして自分が好きなきれいな世界を見たっていいんじゃない?って思う。
悪意に満ちてたり、疑いを持ちつつ見てたり、うわっつらで探り合いみたいなそんな世界でなく、痛ましいことやいやなことがあふれている世界でもなく。

逃げてるのかもしれないし、おめでたいのかもしれないけど、善き人がいて善意で成り立つ世界で助け合って生きてると思える方が、きれいな点を見て穏やかな気持ちですごせるほうが、平和なのではないかと思う。
もちろん現実がそう甘いわけではないのだけど、きれいなところ見たければきれいなところが目に入ってきれいな世界になる、それはそれでいいなと思うし必要だなって思うのだ。

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