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うつくしいものがほしいのか、うつくしいものをつくりたいのか。

うつくしい場所にいて好きなことをして、というのに憧れるのだけど。


でもそれだけでいいのか、自分がこんな風なうつくしいサイトをつくれたり、きれいな好みの場所をつくれたりした方が嬉しいのではないか?とも思う。

きれいなものとかかわいいものとかが自分の手の中にあったら嬉しいけども、ただ手の中にあるだけでは飽きそうで、もっと手に入れようとするのは際限なくなってしまう。
そもそも、いろいろ好きなものはあるけども、なんでもかんでも手に入れたいわけではない。見るだけでいい、行くだけでいいものもあるし、その好きなエッセンスを取り入れられたらそれでいいというようなものもある。
どちらかというと、多くはないすごく好きなものを大事に持つようなくらしがいいなとも思うし。

逆に自分がつくる方だとしたら、自分の好みのきれいなものかわいいものにつくればいいし、必要だと思うようにつくっていいし、絶対思うような完璧なものとかできなくて飽きることはないだろうとも思う。
自分が好きなように何かをつくれたら楽しいだろうと思う。

でもそれは、やりたいことのようで、やりたいのかどうかわからなくもなってくる。
何かしないといけない、働いて稼いで生きないといけないならそういうことがしたい、というだけで、何もしなくて好きなようにしてるだけでいいならやりたいことなんだろうか?

確かに自分で何かつくってみることは子供の頃から好きなのだけど、こんな風なうつくしいものをつくりたい、というのは、仕事にするならそんなきれいなものをつくる仕事を、なのかもしれない。
仕事でないなら気ままに思いついたものをつくるだけで満足かもしれないし、何もしなくていいなら自分はつくらなくて好きなものの中にいるだけでいいかもしれない。

それとも、自分ができないことだから憧れるのかもしれない。
つくるのが好きだと言っても、特別すごいアイディアとかスキルとかはまったくなくて、自分できれいだと思えるものもつくれなくて、適当にゆるくつくることしかできないから。
コンプレックスからくる「やりたいこと」であって、ほんとにやりたいこととはずれているかもしれない。

好みのものを見たりすると、すぐこれいいなぁできたらいいなとか思ってしまうので、いやいやそれはどうなのと冷静に考えようとしてみたけども、それはそれでできないからやらない言い訳を探してもいるようで、なんだかなという気がする。

やってみたいならごちゃごちゃ言わずにやってみたらいいのに、言い訳して考えすぎて動かないわけで。
それくらいならやってみて違ったらやめる方がましなようにも思う。

それに自分が好きなようにつくるだけでいいじゃんとか言ってみても、自分のためにはがんばれなくて。自分のことだとせいぜいやれる範囲で無理なくやる程度なので、人のためなり何かのためなりでないとつくりたい理想のものはつくれない気もする。
アーティストに憧れるのだけどアーティストではないんだよなぁと思う。
手に入れたくて求めているという意味では、ほしいのもなりたいのも同じなのかもしれない。


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