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学びたいと思うのは何かを埋めたいだけなのか?

なんかつい、いつも、もっとこんなことも知っておきたいとか、もっとこんな風にできるようにしたいとか、こんな人のこんなスキルや視点を吸収したいとか、そんな風に思ってしまう。
で、気になることがあると本買ったり講座受けたくなったりしてしまう。

それを、向上心高いなどと、評価されることもあるけど、単にないものねだりであれこれほしがっている気がして、だめだなぁと思う。

知識とかスキルとかあるのに越したことはないけど、学べばいいってものではない。
使わないと意味ないし、使わないと使えるようにならないし。

一応、なんでもかんでも知りたい手に入れたい体験したいというのではなくて、興味ある分野はある程度固定だし、おもしろそうだから気になる、必要だから学びたくなる、とは思っているのだけど。
気になる、おもしろそう、がどんどん広がってしまうのは、仕方ない気もする。
何か学んでたり何かやろうとしたら、今では足りないところとかが知りたくなるし。まじめに学ぼうとすればするほど、今の自分の足りなさを感じる。
それは必要で学ぶべきだとも思うわけ。

でも、何かが自分に足りないって思って、まだもっと今でもできることがあるのに、もっと何かと求めてしまっている気がする。
あれもこれもとよくばって、今ないものを求めて、いつまでたっても満足できないような気がする。

研鑽のために学びたいというのは必要なはずなんだけど、必要なことと優先度とかをちゃんと見極めないとだめだと思う。

つい、自分の知らない方法とか考え方を知りたいと思ってしまうのだけど、それは、知ってればできるのではっていう期待というか驕りというか、そんなものから出てきている気がする。
本来なら自分で自分のやり方を身につけるところを、知識で補完して楽してなんとかしようとしてる気がして、だめだなと思う。
結局知ったところで、自分には自分に合うやり方しかできないはずだし、それは知識ではどうにもならないはずなのに。

そう思うと、気になることとかおもしろそうと思うことについて、それは純粋に興味のつもりなんだけど、ほんとにそうなのだろうかと疑わしくもなる。
何かが足りないと思うから、足りないところをなんとかする変わりに、そこではないけど地続きな、何かが見つかりそうな、ほかのところに興味が向いているのではないか?
ほんとにおもしろそうって思ってるはずなんだけど、本気でそのはずなんだけど、人ってごまかそうとするものだしなって思って心配になってしまった。
埋めるため逃げるためになってないか、ほんとに純粋に興味なのか、意識して見ていたいと思う。

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