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素の自分はどこにいるのだ?

以前、ワークの検討をしていたとき。
ワークの中のひとつに「他人から見た私って?」というのを考えて答えるというのがあった。

そのとき私は、人から見たときの私はその場によって違うと思う、と答えた上で、たとえばこんな感じで言われたりする、といくつか例をあげたのだった。
で、そのあとで、「そういう風に見られることについて自分ではどう思う?」と聞かれて。
それぞれの場でそういう風にふるまってることが多いから、そうだなぁと思う、と答えたように思う。
(特に仕事のときはそうだなぁと思う。ただ、抜けてるとか言われるのは狙ってないし予定外なんだけど実際きちんとするのとか苦手だから言われても仕方ないとも思う。)

でも、その場に合うようにふるまっていて、それに沿うように見られていて、そんなもんだと思っているなら、そもそも自分とはなんだっけ?とふと思う。
ふるまっていてもそこにも自分は出ているはずではあるけど、素のままいるところってどこで、そのときの自分はどんなんなのか。

小さい頃の最初の記憶とか、その後の断片的な記憶が、絵本をひたすら読んでたり、折り紙折ってたり、塗り絵とかお絵描きとかがほとんどで。
だから、素でいるときの自分ってそれがベースなのだろうと思っている。
今でも本とかまんがとか絵を描くとかはスイッチ入ると止められなくなるし。

でもそれって、1人でいるときの話であって、人から見たときの自分ではない気がする。
人といてもかなり気を許してたりしたら、本とか読んでるけど、やっぱりそれでも気を使って読むの減らすし。

気を張ってなくてゆるゆる自由に話している場はあるけど、それでもその場のゆるさに合わせているところもあるように思う。
素っぽいところは出ているようにも思うけど、多分、それが受け入れられなさそうならそっとひっこめてしまうとも思う。

好きなものだけは、変わらず好きだと思うし、素で好きだと思っているのだけど、好きだと思っているだけなのではないか、とか。
やりたいことは、何かをふるまっている私がやりたいだけではないか、とか。

自分は何がしたいのか、何が望みなのか、って考えているとだんだんわからなくなってしまった。

あれこれ場に合わせてるのもふくめて自分なのだし素とか関係なく全部だろうとも言えるけど。
でも表面的にやりたいのとほんとにやりたいのとかは違うはずだしなとも思う。

というかこんな風にごちゃごちゃ考えるから余計にわからなくなるしずれるんだろうな。多分。
シンプルに好きなのは好きでやりたいならやってみてそれでいいのだ。


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