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“自己中心の罪の問題である”という問題

「クリスチャン新聞」10月17日号に、結婚セミナーのレポートが掲載されていた。

「結婚の問題を解決するには」 CBI 「結婚セミナー」でトリップ氏

結婚における問題の原因は、心の問題。
心が変わらなければ、言葉や行動は変わらない。
“私が”という自分中心とした思いがぶつかることで、問題になる。
“私”ではなく“神様”中心の思いであることが大切で、それができないのが私たちの罪である。
自分の罪、自分中心になってしまう罪を夫婦が互いに告白し、互いを赦し合うことで、心が変わり、言葉や行動が変わる。

というような内容の文章だった。

なるほど、確かに。
確かにわたしたちは、「自分が大切にされたい」という自己中心な思いを抱いて生きている。
だから、人間関係もままならないし、心が満たされることもない。


先日ツイッターで、最近考えていることを、半ば怒りを込めて書き連ねた。
アライになることの意義、アセクシュアルとしての自分の立場、それに対する不安と不明。
いろいろとあるけれど、わたしの根底にあるのは、
「もっと私を大切にしてよ。誰か助けてよ」
という、強い強い、自己憐憫の気持ちだった。

冷静に考えると、わたしのネガティブ思考は性的指向には(おそらく)関係がなくて、昔から持っている癖であるとは思う。
それを、キリスト教では“罪”と呼ぶ。
“神の御心から外れている”という意味で使われる用語だ。

さて、自分が大変自己中で罪深いことは、言われるまでもないので今更だが、なにぶんタイミングがよかったので、わたしはこの記事を読みながら反省した。

そうだよな。
自分が可哀想と思われたい、
自分の方が大変だ、
自分が救われなければ他人に気を回す余裕はない。
そんなことを言い続けても、満たされることなど絶対にないのだ。
わたしの気持ちは、自己中心の罪からきているのだから、その事実に向き合って、そこから救われなくては。

そうやってしばらくフンフンと考えているうちに、
「いや、そうはいってもね?」
というところに、再び舞い戻ってきた。

夫婦間の問題は、畢竟、互いの罪の問題である。
そうでしょうとも。
セクシュアルマイノリティとしての怒りをぶつけてしまうこと、それも罪の問題でしょう。
そうでしょうとも。

そう、それが、個人間の話であれば。


例えば狭い道を歩いていて、前から人が歩いてくる。
あ、避けよう、と思って、ちょっと右に寄る。
同じタイミングで、こちらに気がついた相手も、あ、という顔をして、左に寄る。
お互いちょっと目を見張って、右へ左へ体を揺らし、互いに苦笑しながら、
「どうもどうも」
とようやく左右に分かれてすれ違う。

そんな経験をしたことがある人は、たくさんいるだろう。

お互いに罪を認め合って、お互いに赦しあうのは、それに似ている。


では、世の中に交通ルールがなかったとして、おんなじことができるだろうか。
徒歩同士ならともかく、徒歩と自転車、徒歩と自動車、自転車と自動車ではどうだろうか。
交通ルールがない中で、「お互いに罪を認め合い赦しあうことで」で、安全な歩行や走行ができるだろうか。
事故が起こったときに、適切に対処ができるだろうか。
…… 事故が起こったとして、片方が死んでしまったときに、「罪を告白して赦し合う」相手がいないときに、「心の問題」などと言っていられるのだろうか。

細い路地でのすれ違いなら、車と人でも思いやりと譲り合いが発生することもある。
でもそれは、「歩行者が優先である」という交通ルールに則ったうえで発揮される思いやりであって、心の問題ではない。

交通の安全を守るのは規則であって、個人の心の問題ではない。
交通事故を防ぐのは、罪の告白ではなく、規則の遵守である。


夫婦間の問題は、個人個人の事情を鑑みれば、「心の問題」であり「罪の問題」かもしれない。
でも、その人間関係は、完全に対等だろうか。
「お互いに」という言葉は、対等な関係にこそ適用されるのであって、不平等な関係にはないのではないだろうか。
不平等を是正するのは、「思いやり」ではなくて「社会の規則」ではないだろうか。

夫婦間の問題を考えるときに、女性の所得の低さ、女性の健康の問題、ミソジニーや社会の男女不平等の構造が、問題にならないのはなぜだろうか。


性的指向の問題は、個人個人の対話を持てば、「心の問題」であり「罪の問題」かもしれない。
この場合の「罪の問題」とは、自分とは違う他者の在り方を受け入れられない、という排他的な意識の罪、隣人を愛せよという命令から外れてしまう罪だ。
友達同士なら、お互いの存在を認め合い、「あなたのことは理解できなくとも、あなたも神様に愛されていることはわかる」と確認し合うことはできる。
でも、マジョリティとマイノリティの間には、計り難い不平等が横たわっている。
マイノリティは、生きているだけでハードモードだ。
マジョリティが10の労力でできることに、マイノリティは100の労力をかけてもできないことがある。

そのような不平等な関係で、「お互いに愛し合おうね」というのは、どうなのだろう。
力学的に弱い立場のものが、「自分の権利を尊重してほしい」というのは、「道路の通行は歩行者を優先してほしい」というのと、なにも違わないのではないだろうか。

だってそうしなければ、死んでしまうのは歩行者なのだ。


「互いに愛し合いましょう」
「互いに赦し合いましょう」
「わたしたちは等しく罪人です」

そんな言葉が、わたしたちの周りに渦巻いている。
その中のいくつが、適切に用いられているだろうか。
その中のいくつが、少数者を黙らせるために使われているだろうか。
その中のどれだけのものに、少数者が罪の意識をなすりつけられてきたのだろうか。


自己中心の罪は確かに存在している。
でも、わたしは歩行者としての権利を、身を守るための権利を、命を守るための規則を求めることは、なに一つ間違っていないと思う。
これまで何度も当て逃げをされてきた人間が、怒りを持たずに「歩行者の身を守れ」と言うことなど、不可能ではないだろうか。

ああ、どうしたら、この身に渦巻く怒りと、存在認知への欲求を、同時に正しく扱うことができるのだろう。


とりあえず、「互いに愛し合おう」といいつつ人の足を踏みつけるやつは、靴の裏にガムがくっつく呪いにでもかかればいい。


Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊