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友愛<恋愛って、聖書に書いてある?

友愛と恋愛、あなたはどちらの方がより「偉大」だと思いますか?

その日、わたしはとある牧師のメッセージ(説教=聖書に書いてあることを、日常に反映できるように説明すること)を聞いていました。

有名な、「友のために命を捨てること。それ以上に大きな愛はない。」という、十字架にかけられる前にイエス様が弟子たちに語った言葉の箇所でした。
それは、イエス様が「私の教えに留まるならば、あなた方は私の友である」と弟子たちに言い、そして友である弟子たちのために、つまりすべてのクリスチャンのために命を捨てることを告げる言葉でした。
その言葉に立ち返ろう、イエス様の教えに留まり、クリスチャン同士互いに愛し合って生きよう、と激励する内容でした。

一方で、致し方がない場合を除いて「惰性でオンライン礼拝を選ぶ人」に対して、その牧師は物申したかったようです。
コロナ禍になって、友達とはなかなか会えないね、という風潮になった。それは仕方がない。でもそれがあなたの恋人だったら「会えなくて仕方がないね」などというだろうか。どうしても顔が見たくて会いにいくだろう。
怠け心で教会に行かず、オンライン礼拝を選ぶ人は、恋人に会いに行かない人のようだ。
と。

それまで聴いていたメッセージの内容から、一気に心が離れた瞬間でした。
先ほどまで、「友のために命を捨てる愛こそが、神が私たちに示した最大の愛である」と説いていたではないですか。
それがなぜ、「神を恋人のように慕うことのほうが、友であることよりも素晴らしい」というような論調になるのでしょうか。

確かに、聖書にはキリストは花婿であり、教会(=クリスチャン)は花嫁である、という内容の箇所もあります。でもそれは、家父長制度の強い文化における序列や立場の話であって、恋愛の意味でも、性愛の意味でもないはずです。

「友のために命を捨てること。それ以上に大きな愛はない。」とイエス様が言っているのに、なぜ友愛を恋愛よりも下位に置き、友情は優先度が低いような発言を牧師がするのでしょうか。

こういう発言を耳にするとき、わたしは教会内での、クリスチャンの中での足場が崩れていくように感じます。
なぜ、誰も彼もが「恋愛」という比較的新しい概念に囚われて、聖書の時代にまでそれを適用しようとするのでしょうか。その方が自分たちに都合がいいからとか、わかりやすいからとか、それだけの理由ならば、それは聖書理解に努めていると言えるのでしょうか。

それとも、わたしがクリスチャンの中で異端なのでしょうか。

こういう発言を聞くたびに、心が削れていく気がします。
クリスチャンとしての生き方しか知らないわたしは、崩れていく足場の上で、削れていく心を抱えながら、どうやって自分自身を保てばいいのでしょうか。

何年経っても、答えは出ないままです。

Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊