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偶像崇拝

ぐうぞう-すうはい【偶像崇拝】
偶像を信仰の対象として重んじ尊ぶこと。神仏を具象するものとして作られた像などを、信仰の対象としてあがめ尊ぶこと。また、あるものを絶対的な権威として無批判に尊ぶこと。▽「偶像」は神仏などにかたどり、信仰の対象として作られた像。崇拝や盲信の対象となるもののこと。 (goo辞書 三省堂 新明解四字熟語辞典より)

夫には尊敬する人はいない。好きなアーティストも俳優もアイドルも作家もビジネスパーソンもいない。もちろん「上司にしたい戦国武将」なんてのもいない。そうかといって人間に関心を持たないわけでもなく、ルーベンスなり藤田嗣治なりを観に誘うと、彼なりに事前情報を仕入れてはつぶさに観察している。好きな小説家の本を貸せば、仔細に読んでいる。X JAPANの素晴らしさを語れば、うんうんと耳を傾けてくれる。しかし「好き」にはならないのである。四半世紀にわたり映像と写真のみを糧にヘッドバンキングをし続けてきた私としては驚愕の事実なのだが、夫いわく「その人がどんな人なのか知らないから」というのが理由だ。会ったこともないのに、好きも嫌いもないよと彼は言う。現に、私は彼が直接会ったことがない誰かを、悪し様に言うのを聞いたことがない。そして妄信的に良く言うのも聞いたことがない。

いくつかの宗教で偶像崇拝を禁じるのは、像なり絵なりが神ではないからだという。誰だってそれが神そのものではない、ということはわかっているだろう。それでも毎日毎日拝んでいれば、その対象が特別な存在に感じられてくるものだ。目に見えるものは強い。涙にくれて見上げたそのとき、絵や像が輝いて見えたり許容してくれているように見えたりすることもあるだろう。あるいは惰性で、それに祈る=信仰、と考える人も出てくるのだろう。神ではないものを、神以上に敬ってはいけない。だから禁じるのだ。「自分は偶像崇拝はしない、それだけだよ」と無宗教の彼は言う。

大好きなアーティストがいる。大好きな作家がいる。言葉ひとつひとつに「なんて素晴らしいんだろう」と胸を打たれ、できればその人のようになりたいと願う。私はそんなふうにして生きてきた。人は自分以外の誰かになることなんてできない。そんなことはわかっていても、憧れのあの人の、ほんのちいさな一欠片ほどにも輝くことができたら。そう思って頑張れる夜もあった。著名人や偉人が相手でなくとも、仕事で知り合った人などにも「すごいな、ついていきたいな」と思う人はいた。だから彼の「誰かを間接的な情報で判断・想像してすごいと思ったりしない。自分の目で見たことがすべて」という姿勢に、途方もなく純粋なものを感じたのだった。彼が友人や親、会社の人など、既知の人について話すときのまなざしは、いつも優しい。

どちらも間違いではないはずだ。偶然知り得た誰かの一部に勇気を喚起される人もいる。会った人だけを信じる、ということが自然な人もいる。前者は妄信的になりがちだし、後者は会ったからといってすべてが見抜けるわけでもない。どちらも結局、自分が信じたい一部しか見ていない。すべて正しいと過信したり、わかったつもりでいたりするとおかしなことになる、それだけだ。

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そんな夫が、私の新刊『タロットであの人の気持ちがわかる本』を手に随分楽しそうだ。「今の君の気持ちを占ってみるよ」などと言いながら、パカパカと本を開いている。わざとらしくフフッとといたずらな瞳をして、私に本文を見せないようにして読む。なんなんだ君は。女子高生か。

気持ちが知りたかったら聞けばいい、もしくは観察すればいい。それが彼の持論であるはずだし、占いなんて信じてもいない。そして誰かを偶像崇拝しないがゆえに――ひいては、偶像として恐れることも疑うこともしないはずだ――、これからも彼にはこの本を開く機会は訪れないのだろう。それでも毎日何かと理由をつけてパカパカしているのは、「出版おめでとう」「がんばって書いたね」「たくさん愛される本になるといいね」といったことの、彼なりの表現なのだろうと思う。言葉でも伝えてくれたけれど、こうして態度でもきっと。


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