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クリスマスツリーと門松のあいだで

2019年最後の打ち合わせはクリスマスの朝だった。穏やかに話を終えてロビーのクリスマスツリーを見ていると、その向こうに門松の姿があった。ふたつのイベントの端境期だなあ、と思わず感慨深くなる。青竹を鋭く尖らせたクラシカルなデザインの門松は、近代的なビルに据えられると周囲の空気まで清浄になるようだ。明日の朝にはもうツリーは影も形もなくなって、門松だけが「もう正月ですから」というオーラを放って佇んでいるのだろう。

日々はただ同じことの繰り返しのようでいて、ハッと気付くとあっという間に過ぎ去っている。頭では理解できているはずなのに、こういうことがないと心が動かないほど私は愚かだ。気づいたらもう、人生の大半が終わってしまっている。

10年ほどベンチャー企業に勤務していたこともあり、20代から30代はとにかく「量とスピード」を追い求めてあっという間に過ぎた。仕事を詰め込んで詰め込んでここまで来て、良かったことはたくさんあると思う。この人生でよかったとも思っている。ただ、そろそろ「量とスピード」主義から脱却していく必要があると、思い始めてもいた。

今までなかなか見ることができなかった、うつくしい夕焼けの一瞬。会いたいと思いつつ、なかなか予定を合わせられずに来た友達の顔。味わう余裕もなく流し読みした本。愛する人と語らう、ほんのひととき。私の時間からこぼれて、もう取り戻せないものたちだ。そうしたものが、これからはことあるごとに後悔として私の意識にのぼってくるのだろう。

先日、20年ぶりくらいに再読した本がある。私と同じくらいの年齢の女性がそのなかで語っていた。

私の人生は既に多くの部分を失ってしまったけれど、それはひとつの部分を終えたというだけのことであって、まだこれから先何かをそこから得ることができるはずだってね
(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』講談社文庫)

20年前は、読み飛ばした一文である。今になって味わい深く、心に迫るものがあるように思えるのはなぜだろうか。きっと、私が人生から何かを得たからなのだろう。美しい夕焼けや友の顔、本をゆったりと味わう時間や愛情。そうしたものとひきかえに時間を浪費しただけの人生だったように思えたりもするのだけれど、私は何かを手に入れたのだろ。それは静かに降り積もる雪のようにして、今の私を作っている。

不思議なのは、クリスマスツリーから門松への移行を見たときに「ああ、自分は今年、ひとつの部分を終えたんだな」という気持ちがなぜか浮かんできたことだ。おそらくこの20年くらいにわたる、ひとつの部分を。

さて、来年はどうしようか。できれば、貪欲に何かを人生から得ていきたい。でもそれはもう「量とスピード」ではないのだろうと、思うのだった。


2020年上半期の運勢が本になりました。

20年ぶりに再読したのはこちらの本。冒頭の「レーダーホーゼン」なんて、年をとってから読むと劇的に味わい深いなと思う。





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