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推し映画24-「ハニーランド 永遠の谷」とドキュメンタリー映画

元町映画館で1週間限定上映だった「ハニーランド 永遠の谷」。ドキュメンタリー映画が好きなことと、幼馴染みが養蜂家なので興味があった、それだけの動機で選んだのですが、観に行って本当に良かったです。こんなに衝撃を受けると思っていませんでした。

「これは、本当にドキュメンタリー映画なのか?」と、開始3分頃からエンディングまで、ずっと不思議な気分に陥っていました。希有な体験でした。

実際に観ないと、なかなかこの衝撃は伝えづらいのですが、この映画づくりは本当に“偉業”だと思います。まるでドラマのような物語…人の業や濃密な愛情が、美しい映像としてカメラに収められた、そんな奇跡のような映画です。

アカデミー賞史上初、ドキュメンタリー映画が「国際映画賞」にノミネートされたという快挙も頷けます。これがノンフィクションなら、フィクションって…?と思ってしまうほどでした。

「ハニーランド 永遠の谷」について

2019年、ギリシャの北に位置する北マケドニアで製作されたドキュメンタリー映画です。監督:リューボ・ステファノフ / タマラ・コテフスカの両名。主人公はヨーロッパ最後の自然養蜂家、ハティツェ・ムラトヴァ。盲目の母と、犬と猫と暮らしています。

北マケドニアの首都スコピエから20キロほど離れた、電気も水道もない谷で、目が不自由で寝たきりの老母と暮らす自然養蜂家の女性は、持続可能な生活と自然を守るため「半分は自分に、半分は蜂に」を信条に、養蜂を続けていた。そんな彼女が暮らす谷に突然やってきた見知らぬ家族や子どもたちとの交流、病気や自然破壊など、3年の歳月をかけた撮影を通して、人間と自然の存在の美しさや希望を描き出していく。(あつぎのえいがかんkiki より)

第92回アカデミー賞において、「ドキュメンタリー映画賞」と「国際映画賞(旧・外国語映画賞)」の2部門に同時ノミネートされました。アカデミー賞史上初めての快挙だそうです。

両監督のインタビュー記事を読みました。

「どの国で上映しても、その国で一番強い社会問題を通して、物語のそれぞれのレイヤーに繋がることができました。それは世界にどんなレイヤーがあるのかということを知ることができる、とても意義深いものでした。」(リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ監督)

私個人の実感としても、この先何度でも見返したい作品だと感じました。きっと見るたびに、自分の中に新しい気づきや、深掘りしていきたい課題が見つかる作品だと思います。


“本当にドキュメンタリー映画なのか?”

ずっと「本当にこれはドキュメンタリーなんだろうか?」と心の中で繰り返していました。それほど美しく世界で、かつドラマティックな展開を見せ、そしてエンディングではまるで、イソップ寓話を読んだかのような、深くて重い教訓をもたらしてくれました。

なぜ「本当にドキュメンタリー?」と驚愕したのか、分解してみます。

・映像の美しさ

これが“神の視点”なんだろうか…と不思議な気持ちになりました。まるで見えないカメラが至る所にあって、“一番美しい瞬間”を狙って捉えた映像だけを繋ぎ合わせたような86分間。フィクションでもなかなか観れない映像美です。

ひとつひとつのショットがあまりに美しいので、Netflixの「ROMA」を思い出しました。あれはまるでドキュメンタリー映画のような、リアルな手触りのフィクションでした。こちらはまるで、あらかじめアングルを決めて、登場人物の動き方まで精緻に決めて撮られたフィクション映画ではと錯覚するほどのノンフィクション。

ただただ美しいのです。断崖にある蜜蜂の巣を訪れるときの、空中から捉えたショット。夕暮れの透明な青空を背景に、影になった姿。蝋燭だけを唯一の明かりにして、寝たきりの母を介護する姿。ハティツェはいつも鮮やかな黄色の服を着ていますが、乾いた大地とのコントラストがとても美しい。どの場面も、まるで絵画のようでした。


・生身のキャラクター

ハティツェも、そして隣に越してくる9人家族のトルコ人一家も、撮影されているのにまるで飾らない、ありのままの姿を見せます。とことんリアル。

※以下、ネタバレあります※

誰もカメラの存在を気に留めず、ただただ彼らの人生をありのままに生きています。特に印象的だったのは、トルコ人家族の長、フセイン。まだ幼い子供を叱りつけながら働かせたり、夫婦喧嘩をしたり…商売相手との駆け引きすらも、カメラの前で生々しく見せるのです。誰も取り繕ったり誤魔化したりしない。私はただその「生々しさ」を眺めることを許されていました。
そして蜜蜂とともに生きるハティツェの日々を眺めるうち、どうかこの人がこのままで居てくれたらいいのにと願っていました。

けれど「子供は宝だから」というフセインは、7人もの子供をもうけ、学校に行かせるために酪農だけでなく養蜂業にも着手します。はじめはハティツェも指南や援助をしていましたが、フセインは「もっと蜂蜜を売ってくれ」という取引相手に逆らえず、ハティツェの蜜蜂すら殺してしまう。倒木のうろの蜂蜜を強奪した時は本当に「バチが当たればいい」と思ってしまうほどショックでした。


・寓話のような現実

静かに暮らしていたハティツェに、どうか何も悪いことが起きないで欲しいと願っていたけれど、どんどん“こうならなければいいのに”と思った方へ動いていきます。でもリアル。悲しいほど、ただただリアルです。

「半分はわたしに、半分はあなたに」

水場に落ちた一匹の蜜蜂を、ハティツェが優しく掬って助ける場面が印象に残っています。彼女にとって、蜜蜂は共に生きていく同志として、大切な存在なんだと伝わる、美しい所作でした。
だからフセインが、蜜を乱獲してしまったが故に蜜蜂が大量死した時の、ハティツェの嘆きが辛くて。両手に、蜜蜂たちの真っ白い死骸を抱いて「だから全部獲るなと言ったのに!」と嘆き訴える姿が辛くて。まるでイソップ寓話のようだと思ってしまいました。

餌場を荒らしにきた外敵と戦い、ボロボロになる、でも守り抜く、外敵が去る、逞しくそこで生きていく…そういう生物の営み、縮図が、シンプルに描き出されているようで。それが、ドキュメンタリー映画としてフィルムに収めたというその事実。脚本も演出もなく、カメラの前で過ぎ去っていった真実、そこに驚嘆するのです。


“どうやって撮影したのか?”

何故、こんなに希有な作品づくりができたのかが気になって調べたところ、こちらに詳しく掲載されていました。

リューボとタマラのコンビは当初、マケドニアの中央部を流れる川をテーマにした作品を構想し、リサーチを進めていた。そんなときに、これまで環境問題に関わってきたリューボに、スイス開発協力庁(SDC)が立ち上げた自然保護プログラムを通じて、養蜂や蜜蜂の重要性に関する作品を作る話が舞い込む。マケドニアの辺境に伝統的な養蜂を営む人々がいることを耳にした彼は、現地を訪れ、ハティツェに出会った。

ハティツェとの出会いで、監督たちの“撮る目的”が変容していったのですね。柔軟ですね。3年、400時間もの撮影のなかで、“この映画の終わり=映画に込めたいメッセージ”は見えていたんだろうか。それとも、ただ撮影を続けるなかで、カメラの前で起こる展開をただ収めていくなかで、示唆にとんだたくさんのメッセージ性がこもっていったのでしょうか。

リューボは映像作家というよりは環境保護主義者で、植物や動物に焦点をあてた短編ドキュメンタリーの製作に関わってきた。つまり、人間ではなく自然を相手にしてきた。これに対して、タマラは映画学校でドキュメンタリーを学び、社会的なテーマや人間に焦点をあててきた。本作ではそんなふたりの視点が絡み合い、蜜蜂がフセインの一家に防衛本能をむき出しにする様子や蜜蜂同士の間に起きる争いが浮き彫りにされている。

納得しました!映像の美しさと、人間の生々しさが両立…どちらもあり、また偏っていない。それはふたりの監督の背景が違うから。自然を撮ってきたリューボ監督と、人間を撮ってきたタマラ監督とのコンビネーションの結果だったのですね。

ハティツェが蜂の巣のある断崖に向かう冒頭や、再び断崖を訪れた彼女が丘の上で犬と蜂蜜を分かち合う終盤の場面では、時代背景は完全にぼやける。ロングの前掲書では、天然の蜂蜜採取は危険な仕事で、蜜蜂を理解すること、巣を守ろうと本能的に刺してくる蜜蜂にどう対処するかを知っておくことが重要だと指摘したあとで、以下のような記述がつづく。
「こういった情報は、普通はハチミツ採取を専門とする選ばれた一族や集団のなかで注意深く受け継がれてきた。ハチミツの採取は高度に専門的であり、人々から尊敬され、評価されてきた仕事──最古の文明にも記録が残っているほど価値のある仕事だったのだ」

ふたりの監督と、ヨーロッパ最後の自然養蜂家との出会い。そして養蜂家とトルコ人の一家との出会いが生み出した、奇跡のようなドキュメンタリー映画だったのですね。素晴らしい。そんな映画を、スクリーンで観ることができて、幸せです。


2020年9月鑑賞時の感想

できれば何度か見返したい作品です。きっとその時、その時で抱く感情は異なるだろうと予感があります。今の私の感想を綴っておきたいと思います。

ハティツェは、一家が越してくるまでは孤独でした。いや、孤独という言い方は正しくないかもしれない。寝たきりのお母さんとふたりで暮らし、犬と猫と、そして蜜蜂がいて、ただそれだけでよかったのかもしれない。

けれど隣に一家が越してきて、孤独でなくなった。不幸なことも起きたけど、幸福も感じていたはずなのです。少年から「村を出ようと思ったことはなかったの?」と訊かれ、「あんたみたいな子がいたら、もしかしたら」と答えた時、少年が息子になってくれたら本当にいいのにと、多分彼女は思ったはず。そうだったらお互いのために、どんなによかったか。けれど少年は家族と共に去っていき、お母さんは亡くなり、ハティツェは独りになりました。

お母さんが亡くなっても、引越したりせず、そこでひとりで生きていく。犬と猫と蜜蜂がいるし、街や春祭りに行けば知り合いもいる。一家が残していったものも有効活用しているみたい。彼女はひとりで逞しく生きていく。

否、逞しくとか、孤独とかそういうレッテルは彼女に必要ない。ただそこに在る。何が幸せなのかは、本人にしかわからない。評価に何の意味もない。彼女の姿をどう観て、何を受け取るかも自由だし、正解は何処にもない。

悲しいのでは、寂しいのではという感想も、私の主観であり、勝手なもの。彼女は悲しくないかもしれない。寂しくないかもしれない。「村を出るという選択肢もあったのに」と思ったこともあるけど、ただそれだけかもしれない。

ハティツェが、独りになった自分のことをどう思っているかはわかりません。けれどただ願うのは、彼女がどうか、ずっと幸せでありますようにということです。


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