哲学対話体験記#04 「哲学対話についての哲学対話」 ドッグランとコミュニティボール
5月2日。1週間前までは想像もしなかった「哲学対話漬けゴールデンウィーク」に突入していた。私は,悩み事や恋愛に限らず,なんでもかんでも考えたいと思うようになってきていた。
子どもの頃,科学のふしぎ,社会のふしぎ,みたいなQ & A的「なぜなに本」が好きだった。「宇宙のはじまりは?」「どうして子どもはお年玉がもらえる?」「万博ってなに?」みたいな,切り口バラバラ・興味があるのかないのか自分でもよくわからない,しかし読んでいると「世界のどこかに顔見知りが増えた」みたいな気がするような本。
オンライン哲学対話に出始めた頃,私はそんな「なぜなに本」を読む感覚だった。なんでもかんでも私のワカラナイなにかと繋がっている。だからどれに出ても面白い。
ただ,今日書いているこの「哲学対話についての哲学対話」に誘って頂いたときだけは,一瞬「ん?その哲学対話・・・私,出たいか?」と躊躇した。せっかく楽しんでいるものを,わざわざメタ視点で論じるのは,なんだか面倒な気がしたから。
歌は歌ってるときが楽しく,映画は観てるときが楽しい。例えば「本日は映画を観る前に,まず"映画鑑賞の楽しみとは何か?"について2時間,存分に語り合いましょう。」とか言われるとどうだろう。「え・・・話すのヤダな。映画はやく観ようよ・・・。」ってなると思う(歌ったあととか,映画観たあとに話すならまだわかるけど)。
それならなぜ参加したのか?というと,自分の中の心理士(の自己。以下,心理氏)が,"私はその「哲学対話についての哲学対話」に興味があります。参加させて頂きたいです" と(自分会議の中で)発言したからだった。
続けて心理氏はこう言った。
"この哲学対話ってのは楽しいだけじゃない感じがします。例えばあなた(自分自身)の人間関係依存からくる苦しみみたいなのに効いている感じ,しませんか。 温泉の効能のようなもの,感じませんか。そのことについて皆さん(参加者の皆さんと,自分の中の"自己たち")が話す場があるのであれば,それを聴かせて頂いた方がいい"
いろいろな職業がそうだと思うんだけど,心理職にも,これさえ分かっていればうまくいくという療法などなく,この順番でやれば治るというような決まったルートもなく,いつも悩みながら学びながら仕事をしている。学ぶべきことには突然出会う。哲学対話にはまりはじめたこの頃,新しく「学ぶべきこと」に出会ったときと近い感覚があった。
心理氏の明確な意志表示を尊重し,この哲学対話に出させて頂くことにした。
このときの対話の内容はあまり覚えていない。ただ,驚いたことが3つあったので書いておきたい(※うろ覚えのため,細部に誤りがある可能性もあります。確認次第書き直します)。
その1:それほどまでにルールを守ってよい世界
この日最初に驚いたのは,ルール説明をした人(Aさん,とする)の決然とした態度であった。話す人以外は全員,音声をミュートにして,話す人が次の人へ話す権利をまわす,というルールが説明され,そのルールの下に対話が始まろうとしていた。何か発言の必要があれば,緊急サインを出すことも説明された。その矢先,別の人(Bさん,とする:おそらく主催側の人)がミュートを解除してなにかを補足説明しようとした。するとAさんは緊急サインを使って「いま,ミュート解除をしたのはルール違反ではなかったか」という旨をBさんに伝えた。
私が驚いたのは,ルールが敷かれた直後,AさんとBさんの主催側の打ち合わせのような会話よりも,ルールに基づいた「話す権利」のパスの方法が優先されたことであった。
私は「これは案外,なかなかできないことだ」と思うのと同時に「たしかに,これでこそルールだよな」と思った。
その2:自分の中の子どもについて
二つ目に驚いたのは,「哲学対話の場で自分の中の子どもが解放されておしゃべりをしている人たちがいる」ということが,この日の話題として取り上げられたことだった。
参加者の中に「もちろん,私は子どもだ!」と堂々と言う人があった。私も(まさにそうなんだよな!)と思ったが,同時に,この場に自分以外にも明確にそう認識している人がいて,明言するということは珍しいことだと感じた。
私はいつも自我状態としての子どもを連れている気がする。アダルトチルドレンの話でいう「インナーチャイルド」というものと近いのかもしれないが,私の中の子どもは,特に傷つき体験だけを抱えているというわけではない。遊びたがっていたり,笑いたがっていたり,分かるまで質問をしたがっていたりする。
そのような子どもたちを,自分の生活の中の大部分では隠している(つもりである)。しかし,そういえば哲学対話の場においては,日頃狭い家で飼っている犬たちをドッグランに連れてきたみたいに,子どもたちを自由に走らせていた。好きなことをしゃべっていいぞ!さあかんがえろ,話せ!といったものである。
この日の哲学対話で発言した方のなかには「自分も"子ども" になって話したい。やってみてるんだけど,なりきれないのだ」と悔やむ人がいたりして,私はなんだか,自分がほめられたような気分になった。ハハハ,まっくら森に来たみたい。さかさまの世界では子どもがエライ。ヤッター(なんていうか,これじゃすぐ調子にのるただのバカなんだけど,まあ,いつも怒られないように気を使って生きているので,突然ど貧民ループから抜けて一瞬だけ大富豪になれたような,つかの間の天下(という程のことでもないが!)を楽しむ気分だったのかもしれない)。
その3:「コミュニティボール=ぬいぐるみ」じゃなかった
最後にもうひとつ,驚いたと同時に,少し恥ずかしかったことがある。それは「コミュニティボール=手元に持っているぬいぐるみ」だと思い込んでいたことであった。
オンライン哲学対話のはじめのころ,「話すターン」の人は,ぬいぐるみを画面に見せて話すという習慣があった。これは,対面での哲学対話における「コミュニティボール」の代わりとして用いられていた。
コミュニティーボールは「今私が話している(話すターンを持っている)」「私が黙っている(話すターンを保って考えている)」「私が次の話者を選ぶことができる(次の人を選んで,話すターンを渡せる)」など,その場の発言権を保有していることを視覚的に示す役割を果たすものであるようだった(以下,参考サイト)。
http://p4c-japan.com/about_tool_ball/
さらに,私がそれまでに出たことのあった哲学対話では,「ふわふわした安心するもの(ぬいぐるみなど)をコミュニティボールとして持って来て下さい」という事前指示があり,ぬいぐるみを持参していた。だからそのぬいぐるみのコミュニティボールは,既に「その場にあって安心感をもたらすもの」という役割を持っていることは分かっていた。
だが,その日の主催者さんは,それらの意味に加え,コミュニティボールの「もうひとつの役割」について話した。それは「安心の象徴」というものだった。
コミュニティボールは,触れたり握り締めたりできることで安心感を与える役割も果たせるが,それ以上に特別な意味を持っているようだった。それは,あるとき仲間が集まり、時間を共有し,耳を傾け合い,相手を想い合い,継続して聴き合おう,支え合おうという意思を持ったことを示す,言わば「仲間とのケアの歴史」を反映する「安心の象徴」としての役割であった。
(これを話してくださった方の書かれたコミュニティボールについてのブログリンクを貼ります)。
安心の象徴「コミュニティボール」|発達障害者まりんのスキーマ療法体験記 @1046marin0406 #note https://note.com/marin20190308/n/n43b92469fb7b
私はその日,「こんとあき」のこんを持っていっていた。それを選んだのは出席時間直前で,大人の自分が「どれにするの?あと3分しかないよ!」と言って,なんとなく緊張していた子どもの自分が「うんと,うんと・・・こんちゃん」と言って,選んできたものだった。緊張しているからギュッとできる大きいやつ,ずっと一緒にいる仲良しの手作りのやつ,というのは言語化されていなかったが,そういう感じだった。「コミュニティーボール」の真髄には一歩届いていなかったものの,私にとってもこのぬいぐるみを握りしめてくる感じは,それなりに切実だったのだと思う。
しかし,その「安心の象徴」としてのコミュニティボールの説明について今考えてみると,そこには更に重い切実さが感じられる。それはおそらく,コミュニティ・ボールについてだけではなく,オンライン哲学対話についても同様である。「共にあること・その場での安心」について,その感覚を日常でも思い出すことができるならば,それはその場で暖まったり楽しんだりするだけのものに留まらず,永く続く滋養のようなものをその人の中に残すものだと言っているようである。
以上がこの日の振り返りである。あの日,出席を促した心理氏は,対話中はなにを考えていたのか知らない。けれども対話のあとで
(自我状態療法となんか似てるな・・・)
と思い,サンドラ・ポールセン先生の名著「図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法」を取り出して眺めたりしていたようである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4487805295/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_m0JJFb90TE3P4
この日,「哲学対話についての哲学対話」で私が得た新しい知見は,自分にとって「哲学対話=ドッグラン」という側面がある,ということと,コミュニティボールの最も重要な意味について,であった。
これもまた,大変よい日であったと言えるだろう。おわり。