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「抱擁」日野啓三

 蔦に囲われた大きな屋敷にまつわる怪しい人々の交情を濃密な文体で綴った純文学である。村上春樹の長編を読んでいて少々食傷気味になっていたところ、本の整理をしていて出て来た読み差しの古い本であった。初版は1982年2月、内向の文学に新しい視点で取り組み高い評価を得た活字文化がまだ健在な時代の芥川賞作家の作品である。
 物語は、樹木が鬱蒼と繁る世間と隔離した邸宅が並ぶ都心の高級住宅街が舞台。その内の大きな敷地の一軒の屋敷を高台から見下ろしていた主人公が不動産屋の男に仕掛けられたようにそこに住み着き、老主人を始めとした崩壊家族に翻弄されながらも自分自身の再生を図ろうとする。しかし海外で失踪した息子の娘の発狂と、後妻の若夫人の誘惑など気狂いじみた仕打ちの前に主人公は狼狽する。やがてカタストロフが当然のようにやって来るが、物語は懸命に再生を賭けて動き出してゆく。
 30年以上も前に手にした本。その時に何を思ったか、最後の余白のページにこんな走り書きがあった。
 「どんな限りを尽くしたその行為にも時間より確かな終りがある。悲しみより深い虚しさが私を襲い、誰でもなくなった女だけが笑っていた。人は嬉しくなくても笑えるのだ。妙な確信が虚しさをより深いものにする。自分は何をしているのだろう。女の笑いが声になった途端、私の手は女に降りかかっていた。確かな終りが時間を逆流させ始め、終りのない苦業の扉が開いた。」と。

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