家を訪問する

昔と今とでは、「家を訪ねること」の意味も重みも変わったんじゃないかと思う。

例えば少し古めの小説や随筆なんかを読んでいると、旅行の準備をしているうちに近所の隠居さんが「面白い煙草があるよ」と尋ねてきて、そのまま1〜2時間雑談、みたいな話や、仕事の依頼に来た雑誌の編集者とたまたま話し込んでしまい、そのまま意気投合して、すっかり友人になってしまった、みたいな話を見かける。

最初のうちはふむふむと流し読んでいたこの類のエピソードだけど、最近ふと考えてみると、自分の実家では不意に人が訪問してくるなんてことはなかったし、ましてそれを通じて人と仲良くなるなんて有り得なかったことに気づいて、それを不思議に思ったのだ。

今の僕たちにそれに似た機会があったとしても、同じアパートや町内会の人が玄関先で高々20分間お喋りするくらいのもので、さっき書いたような面白い関係とか、知らない人と仲良くなる偶然が生まれることも滅多にないんだろう。

例外があるとすれば田舎住民や祖父祖母世代で、そういえば昔田舎のばあちゃんの家に居ると、近所の知り合いが面白いものを引っ提げて家を訪ね来て、小一時間雑談して帰るって場面をよく見たな。誰かがどこかのお土産の和菓子を持って来て、玄関に座り込んで、ウチのばあちゃんもそこに日本茶を持っていくし、即興日本版アフターヌーンティーだった。

今じゃそんな文化は絶滅寸前なんじゃないかな。色んな背景があると思うけど、少し寂しい気がするな。きっと情報化やら都市化やらで、直接会いに行く必要性も、他人の家に上がることの敷居も高くなったんだ。

他人と雑談する建前を失うことは結構な悲劇で、今この時代に生きているからこそ、それを痛感している人も多いんじゃないか。この時代にあっては、大学生も多分、授業の空きコマという建前を失って、色んな人とのんびり話をする機会は格段に減っているから。ある授業で知り合った先輩二人と、毎週空きコマに開催してた座談会(ポジションがそれっぽいから「徹子の部屋」とか呼ばれていた)が懐かしいです。

多分だけど、昔の人も「空きコマのノリ」で人の家を訪ねて、喋って、満足して帰宅したんだろうな。それが今では、人の家を訪ねるなんて、そもそもかなり仲良くなきゃ出来ないじゃないか。昔に比べたら、相互に「家を訪ねること」の重みは凄いし、何よりも深い親密さを意味するようになったんだと思う。

時代は流れて社会は変わっていくけど、こういう細やかな文化もどんどん変容しているんだな。すこーし昔が羨ましいかもしれない。

いやでも自分の時間に勝手に人が侵入してきたら嫌か、嫌だよな。自分の部屋で過ごす時間は好きだし、やっぱり僕は今のままでいいかもしれない。

何が言いたいんだよって感じだけど、深夜散歩の帰り道の雑記なので許して欲しい。文章が全然まとまってなくてもいいや。とにかく僕は、今から大好きな自分の部屋に帰るんだ。

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