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差別や偏見がなぜ馬鹿で幼稚かという話

私は自分自身が差別にあった経験というのは殆どないと思う、それは実際に無かったかもしくは私が鈍くて気づかなかっただけだろう、だが他人が何かを差別する所はよく目撃する、それを見る度にその行動に対して馬鹿で幼稚だなと思わずにはいられない、なぜ馬鹿で幼稚かを書こうと思う。

その前にまず差別とはなんだろうか、色々意見はあるだろうが私の考える差別とは【立場によって偏った思考の違い】だと思う

各々の立場の違いが生んだ景色や経験(この経験というのは社会や親によって受けた教育も含む)の違いによって現れる物だろう。

では何故馬鹿で幼稚かという問いだが、それはその無意識の歪みが、凄く自分本位物だからとしか言いようがない、自分の立場というのはクリアに見えているのかもしれないが、対世界に対して視界がすごく大雑把なのだ。

視界が大雑把なせいで、1人に問題があっても、相手の持っている属性を一括りにして決めつけ批判するのだ、だが実際世界というのはそう単純でもなく、男でも女でも賢い奴もいれば馬鹿も居て、肌の色が同じでもいい奴も居れば悪い奴もいる、当たり前の事だけど個人と世界は別物だ。

正直こんなのは当たり前なのだが、何故書いているかというと未だにそういった物を聞いたり見かけたりするからだろう、寧ろ10年前に比べてインターネットが広く普及した事により、ネットでは馬鹿の書き込みが目立つようになってきた、内輪ノリのつもりなのかもしれないが、だから許されるかといえば否と答えるし、そういった書き込みを見ても私はちっとも面白く無い。

上記の内容を読んで貴方達はおそらく、何を当たり前のことを、と思うだろう、私がコレを書くに至ったには理由がある、自分を顧みたとき、私は差別的な事を想起してしまう人間だと思ったからだ。

それは現状差別と捉えられている人種や性差、出身地によるものではなく、差別という認識が大衆から薄れたもっと細々として具体的な物であり、風潮として叩いて許されるとされてしまっている物だ。

具体例としては、撮り鉄、パパ活女子、トー横界隈、インフルエンサー、サウナー、陰謀論者、スピリチュアル好き、HSP、ヴィーガン、問題を起こした著名人

短時間でこの程度は思いついたのでおそらく実際はもっと多いだろう、私はこういった属性を持ってる人が、ざっくり言うと気持ち悪いと思ってしまった。

だがその考えは前述した理論に基づくと差別にあたるだろう、自分が属していないだけで個人ではなく大きな括りで嫌悪する、まさしくそれは差別に他ならない、だが私はそれが許されるという世間の風潮に流されて、そういった意識を持ってしまったのではないか、なんとも馬鹿で幼稚ではないか、そう思い改めて自省の意味も込めて書くに至った。

おそらく私の挙げた例を聞くと、なんとなく自分もそうだったかもしれないと思う人も居るだろう、コレからは意識を変えるべきだ。

100%偏らずに生きる事は難しい、だからといってそれを諦めてはいけない、自分の持ち得た属性、自分にはない属性、そのどれもをフラットな目で見ようとする事を、そして発言には責任がある事、より慎重にならなければならない事を改めて認識するべきだと思う。

おそらく私の生きている間に差別が無くなることはまずないだろう、であるならば私は常に当事者の1人なのだ、ならば当たり前だと誰もが笑っても、これからも発信し続けたいと思う、差別をやめようと。

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