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私が「自分らしさ」が大事だと思うようになった理由

世間では、既存の男らしさ、女らしさについて疑問を呈する動きが活発になってきているように思います。男だから筋肉、スポーツ、活動的というわけでもないし女だからしおらしく、長髪で男を立てるのが良いわけではありません。それが好きならばすればいいし、したくないならしないでよい世の中へなって欲しいなと思います。

ジェンダーレス、ジェンダーフリーなどと呼ばれる昨今、そうした言葉をまとめて「自分らしく」と言うワードを目にする機会も増えました。

そうしたワードを聞くにつれて思うのが世間は変わってきたけれど肝心の「トランスジェンダーはトランスジェンダーらしさから抜け出しているのだろうか?」ということをふと考えてしまいました。

オカマはオカマらしく

ニューハーフという言葉はサザンオールスターズの桑田佳祐さんが考えたと言われています。テレビで1980年代後半ぐらいから1990年代前半においてニューハーフブームがありました。テレビのバラエティやドキュメンタリーに数多くのニューハーフが登場し子供心に憧れを見るようにテレビにかじりついていたのを覚えています。

そこで求められたのはセクシーで話がうまい、男女両方の心がわかる、恋愛に長けた、踊れる、笑いがとれるという像でした。今でも「カマカマしい」といった言葉でそれらは一部残っているように思えます。

私が映画ミッドナイトスワンの監督にインタビューした際に監督は言いました。「ニューハーフは美しくなくてはならんぞ。という価値観がかつてあった。そうじゃなきゃテレビに出れんぞ、と。それはおかしいんじゃないか?と思っていて映画のシーンにも無意識にでている。実際、多くのトランスジェンダーは普通の人たちだ。」と(そのうち記事にいたします)。

こうした「オカマ像」の形成は当時から少なからずあったと思います。それは幼少期にテレビで見てもひしひしと伝わってきました。そして、それには自分はなれんぞと思ったものです。あそこまで笑いをとれないし話せないし、あそこまで性を出すことは自分とは別次元の話のように思えたのです。

女装や男の娘の世界でもある「設定」

その昔、新宿は二丁目がゲイタウン、〇丁目が〇〇といったすみ分けがされていました。新宿三丁目はその中で「女装の聖地」と呼ばれていたそうですが、今でも当時を知る年輩の人は「女装は男に尽くすもの」という価値観があったといいます。

私が新宿二丁目へ最初の頃は「恋愛対象は男性」としか言えない空気感はありました。今では女装はおろかトランスエンダーでも恋愛対象が女性の人と公言する人もたくさんいます。

一方で、2010年頃に男の娘ブームが盛んになったころには男の娘は趣味で女の恰好をしていて恋愛対象は女性であるという「設定」がありました。

内部では、性同一性障害としてホルモン治療をすすめているものもたくさんいて、バイト応募の履歴書の書式にはホルモンの詳細まで書かせるお店すらありましたが、メディア向けにはそう言っていたのですね。でも暗黙の了解でそういうことになっていました。

要はビジネスとして自ら「ニューハーフらしさ」「女装らしさ」「男の娘らしさ」を作ってきたのです。

自分らしさの重要性

はたから見ると女装もニューハーフもGIDも性同一性障害もトランスジェンダーもみんなオカマであるという乱暴そうな意見を言う人がいますが、実際かつての現場を知るものとしては全くその通りだったと考えています。それだけ当事者も周りもよくわからなかったし、だからこそ一緒になってムーブメントを作れたのかもしれません。

中にはゲイだと思っていたが二丁目に来て初めてトランスジェンダーという存在をしって自分のことが分かったという人もいました。

一方で、今では言葉を重視して「GIDとトランスジェンダーと性同一性障害とトランスセクシャルは全て違う。」と言う人もいます。む、むずかしい。

経験談としては、名乗るのが「女装」や「男の娘」といいながら半陰陽の人、SRSした人、もっとひどいと普通の女性の人が偽っているケースを見てきました。

一方でトランスジェンダーといっていても何も行動していない普通のおじさん、MtXといいつつとてもきれいな女性に見える人もたくさんいました。

細かいジャンルやクオリティは雑多な世界で曖昧なものだと思っています。その「曖昧さ含めて自分らしさ」でいいんじゃないのか、とそうした混沌(カオス)の中で長い月日を過ごすうちに思えるようになりました。

2020年代に入りこうした細かいジャンルのすみわけは昔よりもされているように思えます。自称「女装する人」はどちらかというとロリータまではいかないがドーリーでフリフリの服にハイトーンの髪色が多いように思えるし、自称「ニューハーフ」は陽キャで整形もガンガン、美しさセクシーさを求めるみたいな典型的イメージ像をなんとなく感じるようになったのです。

一方でトランスジェンダーが女装や男の娘の上位互換かというとそうでもありませんし、可愛さや美しさがトランスジェンダ―の方が上かと言うと実はそうでもありません。両者はごった煮にされがちだがやっぱり似て非なるものです。

でも、じゃぁ自分がどれに属するのかということに真剣に悩むのではなくて、他人がどうこう言葉がどうこうじゃなくて自分がどうなりたいかを持てることが大事だと考えています。

それが「自分らしさ」の行きつく未来になるんじゃないかな、とふと深夜に感じたのです。


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